新世紀エヴァンゲリオンの二次創作物、小説「Ihr Identität」を掲載するサイトです。初めての方は「このサイトについて」をご参照下さい。小説をご覧になりたい方はカテゴリーからEpisode#を選んで下さい。この物語はフィクションであり登場する人名、地名、団体名等は特に断りが無い限り全て架空のものです。尚、本ホームページに使用した「新世紀エヴァンゲリオン」の画像は(株)ガイナックスのガイドラインに沿って掲載しています。配布や転載は禁止されています。
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第12部 Jeux interdits 禁じられた遊び (Part-6) / Snowman(中編)
2009年…ズィーベンステルネに収容された8歳の少女ドリューは自分が何者であるかも分からないまま投薬と検査の日々を過ごしていた。そして、そこで出会った少年アイン。ドリューは超然と運命を受け入れろという少年アインをひたすら頼る様になっていく。
(あらすじ)
2009年…ズィーベンステルネに収容された8歳の少女ドリューは自分が何者であるかも分からないまま投薬と検査の日々を過ごしていた。そして、そこで出会った少年アイン。ドリューは超然と運命を受け入れろという少年アインをひたすら頼る様になっていく。
Scenes from Heaven / the Fauré Requiem
※ 嫌な予感がしていたのですが上限オーバーに引っかかってしまいました…Snowman作りは次回に回しました。
(本文)
アタシの近くにお医者様のような格好をした若い男の人が立っているのが見えた。アタシが目を覚ました事を知るとゆっくりとこっちにやって来る。
「やっと目が覚めたようだね…まあレベル3の投与は大人でもきついからな」
冷たい目だった…
「あ、あの…ここは…」
「ここかい?ふふふ。残念だったね…君は地獄に来たのさ…ドリュー…」
「地獄…」
アタシの名前はドリューというらしい…そして…今…アタシがいる場所は地獄…その意味はすぐに分かった…
アタシは何も着ていなかった…すぐに厚手の綿で作られた作業着の様な服に着替えさせられた。上着の後ろと前には数字の「3」と書かれていた。
若いお医者様のような男の人はハンス・ケラーマンという名前らしい。胸からぶら下げているIDカードを見て知った。
「あの…ケラーマンさん…」
「ドリュー…ここでは君たちの質問には答えてはいけない決まりになっているんだ…」
アタシの方を全く見ようともしないでハンスは面倒臭そうに答えると鉄格子の扉を開いてその中に入るようにアタシを促した。
アタシが戸惑っているとまるで北欧神話に出てくる荒ぶる霜の巨人かと見紛う様な恐ろしい看守がアタシの目の前に現れた。
アタシはあまりの恐ろしさに声も出なかった。
まるで足が凍りついたみたいに動かない。その巨人はアタシを睨みつけるといきなり怒鳴り始めた。
「ぼやぼやするな!!さっさと歩け!!ドリー!!」
酷い訛りで何を言っているのかさっぱり分からない。
恐怖でアタシが立ち竦んでいると、次の瞬間…アタシは大きな手のひらで吹き飛ばされていた。
始めは何が起こったのか、さっぱり分からなかった。自分が殴られたのだと焼き鏝(ゴテ)を当てられた様にどんどんと熱くなっていく右頬、そして滝の様に流れてくる鼻血を見てようやく気が付いた。
アタシは泣いてしまった。
分かっていた…泣けばまた殴られるって…でも…
どんなに我慢しても次から次に涙が溢れて止まらない。口を必死になって押さえても声は漏れてしまう。
だから…アタシはまた殴られた…
堪らず助けを求めてハンスの姿を探す。すると既にハンスは背中を向けて何事も無かった様に廊下を歩いていた。
そして鉄格子の向こうに消えていった。
アタシは一人…嫌でも一人…頼れる人は誰一人としていなかった…自分が何のために生きているのかも分からないまま…
巨人が今度は倒れたアタシの身体を容赦なく靴のまま踏みつけてきた。
「泣くな!!なにをやってるんだ!!」
「うううう!」
アタシの頭は混乱していた…幾ら考えても何かを吸い取られてしまった様に頭は真っ白だった…恐ろしさ…悔しさ…悲しさ…ありとあらゆる感情が渦巻いてアタシの胸は張り裂けそうだった…
でも…ここにいつまでもいるとアタシは本当に踏み殺されてしまう…だから…
アタシは…黙って立った…
「そうだ!!やっと立ったか!!さっさと歩け!!ドリー!!」
やっぱり何を言っているのか全然分からない…
想像力を廻らせる…
アタシは彼の指差す方向へ一先ず恐る恐る歩き始めた…
人の気配の全く無い、静まり返った世界…冷たいコンクリートを裸足で歩いて行くと無個性な鉄の扉が続く…
その一つが悪魔の様にポッカリと口を開けていた…
「入れ!!ここがお前の部屋だ!!」
ねずみ色の小さな部屋にベッドとトイレ…遥かに高いところに小さな窓…
アタシが部屋に入ると扉は荒々しく閉められた。
鼻を両手で押さえたまま冷たい床にしゃがみこむと再び涙が溢れてきた。誰もいない部屋に一人…唯一の救いは今なら泣いても殴られないという事だった…
いつの間にかアタシは眠っていた。
かすかに部屋の片隅から何かの物音が聞こえてくる。コンクリートの壁を叩く小さな音だ。
「誰…」
左隣の部屋からしていた。
アタシは慌てて起き上がると壁に耳を当てた。隣の部屋に誰かいるのが分かった。
「誰…誰かいるの…?」
すると隅のレンガが一つ、突然向こう側から外される。レンガの上から適当に塗られたコンクリートの壁に僅か10cmほどの隙間が現れた。
アタシは穴を覗き込んだ。
「やあ!」
向こう側には綺麗な銀髪の男の子がいた。
歳はアタシと同じくらいだろうか。綺麗な青い目をしていた。彼の目を見たとき、不思議と初めて会った様な気がしなかった。遠い昔に何処かであった様な気さえした。
でも…やっぱり思い違いかもしれない…自分が何故ここにいるかも分からないのに彼を知っている筈がない…
「あなたは誰?」
「覚えていないのかい?」
「え?アタシを知ってるの…ごめんなさい…アタシ…あなたを覚えていないわ…」
「そうかい…じゃあリリンの仕業だね…僕はアイン…ここではそう呼ばれている…」
アタシは小さな隙間に顔を突っ込んでアインと名乗るこの顔をしっかり見ようとした。その気配に気が付いたのか、アインは小さく笑うとアタシと同じ様に壁に開いた小さな穴に自分の顔を押し付けてきた。
「アインというのがあなたの名前なの?」
「そう。君と同じだよ。ここに一番目にやって来たから数字の「1」にちなんでアイン。本当の名前を持っていてもここでは何の役にも立たないからね…」
「本当の名前?」
「そうさ。君が自分の名前だと思い込んでいる「ドリュー」は君が3番目にここに来たからさ。君の本当の名前はドリューじゃない。数字の「3」に因んでいるに過ぎない」
「う、ウソ…」
「本当さ」
アタシは急に悲しくなってまた泣いてしまった。
唯一それだけが今の自分の全てだったのに…それをいきなり失ってしまったら何もかもが崩れていきそうな錯覚に陥った。目の前が真っ暗になり胸が潰れそうになった。
「君、泣いているのかい?悲しませるつもりはなかったんだ。心配しないで…僕は知ってるよ…君の本当の名前を」
「ほ、本当に…?」
アタシは再び壁の隙間に顔を突っ込んだ。さっきと変わらない顔がそこにあった。
「本当さ。君の本当の名前はエリザベートというんだ…」
「エリザ…ベート…?い、痛!」
急に殴られたような痛みが頭の中を走り抜ける。アタシは思わず頭を抱えてコンクリートの床に突っ伏した。
「考えるのを止めて!過去を探ってはいけない!ただ…目の前の事実だけを受け止めるんだ…いいかい?これから僕たちは目の前のことだけを運命として受け止めないといけないんだ。そうすればその苦しみから逃れることが出来る」
「はあ…はあ…どうして…頭が痛くなるの…?」
「さあね…僕にも分からない。僕はこの星に生まれて来て驚いたよ…これほどリリンとは残酷で、これほど自分以外の存在に厳しくて、そして苛烈になれるものなのかとね。まるで自分が万物の創造主であるかの様に振舞う…罪深きものたち…その罪さえも自覚する事はないんだ…」
不思議な少年アイン…
彼はアタシを知っていてアタシは彼のことを知らない…でも…アタシはエリザベートという名前を持つ「ドリュー」と呼ばれる女の子…どうやらそれをまず受け止めることから始めないといけないらしい…
それが今のアタシの全てになるのだから…
アタシ達は恐ろしい看守を「巨人」と呼ぶ事にした。
アタシが北欧神話に出てくるユミルという巨人のお話を聞かせるとアインは手を叩いて喜んだ。巨人は森羅万象の精霊たちのことを意味し、ノルウェーのトロールの伝承にも関係するという。
中でもアインはトーベ・ヤンソンのムーミントロールのお伽噺が大のお気に入りだった。アタシ達はいつの間にか夢中になって話をしていた。
アタシ達の「巨人」は毎日3回、決められた時間に食事を運んでくる。献立は毎日殆ど同じで代わり映えはしなかった。
それが余計に時間の感覚を狂わせた。
乾燥してカチカチになったパンとすっかり冷め切ったスープ。パンは千切ればすぐに粉になる。冷たいスープに浸けて柔らかくして食べた。どうしても食べるのに時間がかかった。残せばそれを理由に巨人に殴られる。
生きるために食べなければならないけどそれはあまりにも苦痛に満ちていた。それでも尚、口にしなければならない自分が酷く惨めに思えた。どうしてこんな思いまでして生きているのか…
でも…死ぬのはもっと怖かった…
この世は皮肉に満ちている。
アタシが何か疑問に思っていると機先を制する様に決まってアインは隙間から諭す様に言ってくる。
今回もそうだった。
食べ物があるという事、いえ、そもそも食べるという行為が如何に素晴らしい事か、考えた事があるのかとアインが言う。
アタシは驚いた。
アタシ達は食べると言う行為に対して普段特に意識する事はないし、ましてそのこと自身に疑問を差し挟む事もしない。
「食べる必要の無いものが…もし、この世に存在するとしたらどうなると思う?」
アタシはその問いに答える事が出来なかった。食べなくても生きていける存在なんて考えた事もなかったから。
アインは言う。
食べる必要の無いものはその糧を味わう事を知らず、またその糧を得る努力と喜びも知らない。そして糧を与えられた恵みに対して主に感謝を捧げることもない。つまり…それは心がない存在なのだという。ヒトの心とは本来、恵みに対して感謝するという精神的衝動なのだ。
アタシは始め全てに絶望していた。そして…ただ生きるためだけに日々の糧を無意味に口にしていた。でも…感謝の祈りだけは必ず捧げる事にした…
「いただきます…」
「イタ、ダキマス…イタダ、キマス…イタダキ、マス…ははは」
「何がおかしいのよ?」
「愉快だからさ。不思議な響きだね?それはなんだい?」
「これは日本語よ。日本の感謝の祈りなんだから」
「日本語?ふーん。君は色々なことを知っているんだね、エリザ」
確かにそうだ…どうしてアタシは日本語を知っているんだろう…
「君はそれ以上考えない方がいいよ。何故、自分が日本語を知っているか、なんてね…受け止めるんだ…」
アインの言う通りだ…考えれば頭が割れそうになるほど痛くなる…それに…早く食べないとまた巨人に酷い目に遭わされる…考える事は許されない…脇目も振らずひたすら前だけを見なければならない…
アタシが現実を離れて苦しみの無い空想の世界で遊べるのは巨人達が寝静まった夜の間だけだった。
お話が聞きたいとせがむアインに物語りを語り、そして歌う時、アタシもまたその世界をアインと二人で冒険することが出来る。
アタシ達は小さな隙間を通して色々な話をする様になっていた。
「君が来る前までそこはツヴァイ(Zwei / 独語「2」)の部屋だったんだよ」
眠ってしまったのかと思っていたアインが突然、何の前触れも無く話しかけてきた。
「え?ツヴァイ?」
アタシが天窓の月明かりに向かって祈っている時だった。
「彼は鳥が大好きだった。時々あの窓の外にやってくる小鳥君を見てはよくはしゃいでいた。小鳥君はいつも楽しそうに歌うんだ。まるでモーツァルトのオペラに出てくるパパゲーノの様にね。自由に…憂いもなく…ただ彼らの歓喜を歌いあげていた…僕たちはそれに合わせてよく一緒に歌ったんだ」
「楽しそうね。ツヴァイは今どこにいるの?」
「彼はもういない」
「どうして?」
「彼は死んだよ。そしてリリンは彼を裏庭に埋めた」
「そんな…」
「彼はゲノムの解析のためだけに必要とされた命だった。リリンとアダムより生れしものとの違いは僅かでしかない…ゲノム情報をベースにした分子動力学計算により得られる波長パターンを取得するのがリリンの意図だったんだろう…彼はあらゆる電磁波を直接照射されて測定に最も適した波長域を持つ電磁波を探る実験に使われた。生かされたとしても彼のDNAダメージはとても言葉では言い表せられない状態だっただろうから…あるいは彼の死は慈悲だったのかもしれない」
「酷いわ…」
あらゆる電磁波…それは人体に有害なX線やγ線なども含むのだろう…可視光を当てられて死ぬわけが無い…そんなものを直接照射するなんて悪魔しか考え付かない様な仕業だ…
「彼がいなくなってここはすっかり静かになってしまった。でもね、確かに彼はここで生きていた。そして小鳥君たちが来ると笑ってジャンプしながら彼は歌っていた。彼の歓喜をね…力いっぱいに…リリンたちにその命を奪われるまで…」
「彼が天に召された後…小鳥君たちも来なくなってしまった…」
「…」
「君を悲しませるつもりはなかったんだ…でも…ありがとう…君のその涙で彼の魂は救われる…主の元に遣わされ…やがてガフの扉が開く時…還るべき場所に戻るだろう…」
アインはやっぱり不思議な子だった…どうして壁で遮られているのにアタシが泣いている事が分かったのだろう…
「君の…その美しい涙は…主がこの地上に下さった恵み…エリザ…僕は感謝の祈りを捧げよう…この恵みに…Amen」
アタシも祈る事にした…自分の犯してしまった罪…その罪により今の自分があるのだから…それに加えて可哀想なツヴァイという子の為に…
チャイルドと呼ばれる子供達がどうやらアタシとアインだけではないらしい事が分かった。
アタシとアインは半月に一度の割合で健康診断と投薬を受けていた。正確にはその両方を受けるのはアタシでアインは健康診断だけだったけど…
この施設で暮らすようになって1ヵ月半後…今までに二回、健康診断を受けたからそうだと思う…三回目になる健康診断の時にアタシ達はコンクリートの壁に囲まれた殺風景な医務室に集められた。
巨人の合図で自分の部屋からいつもの様に廊下に出ると知らない子達が何人もいた。 アタシは驚いて思わず隣にいたアインを見た。アインは小さく首を横に振ってアタシを促した。
全員が前と後ろにゼッケンの様に自分の番号を持っていた。 アタシの番号がみんなより若いという事はみんなアタシの後からここに来たということなのだろうか。あらゆる人種の子がいたけど女の子はいなかった。
女の子はアタシ一人だった。
健康診断はハンス・ケラーマン、アタシがこの施設で知る唯一の大人、がいつも一人で行う。ハンスは人数が増えたからなのか、うんざりしたような顔をしていた。
アタシとアイン以外の子達は部屋の中を走り回ったり、ふざけ合ったりしてはしゃいでいた。
この子達は何処から来たのだろう。
「君は知らない方がいい…」
「え?な、何が?」
「彼らの事さ…知れば君も辛くなる…」
アインはそれ以上何も言わなかった。
検診の時は下着以外の服は全部脱がなければならない。アタシは自分の唯一の持ち物である赤いリボンは何があっても絶対に外さなかった。
ハンスは始めアタシにリボンを外す様に言ったけどアタシはそれを拒否した。ハンスも特にそれを強いる根拠も情熱もなかったみたいでそれ以上何も言わなくなった。
赤いリボンでアタシはいつも左右の髪を束ねていた。
アタシの唯一の財産であり…そして唯一のプライド…
外したら最後、自分という存在、尊厳までなくなってしまいそうで怖かった。
順番はいつもアインが一番だ。
健康診断が一通り終わるとアインはすぐに部屋に戻される。注射や各種測定を受けるのは決まってアタシ達だけだった。
ハンスがアタシの胸に氷の様に冷たい聴診器を当てる。その後は採血と皮下注射、そして時々身体測定やCTスキャンなどの測定があった。
フィア(4)は日本語が少し喋れる東洋人。何処の国かまでは分からないけど英語で会話出来てとても頭がいい子だった。
ゼクス(6)はアフリカ系で綺麗な英語が話せた。アタシ達の中では一番背が高かくて運動が得意だった。
ズィーベン(7)はダークブラウンの瞳に黒髪が似合う白人の男の子で特徴的なアクセントがあった。多分フランス系だろう。いつも神経質そうにそわそわしていた。
アハト(8)は浅黒い肌をしたインドか中東辺りの出身だろう。ビックリするくらい暗算が速くて頭が凄く良かった。
そして…ヒュンフ(独語:5 fünf)はアタシと同じ青い目をしたエンゼルヘアの男の子だった。多分、北欧の出身だと思う。
ヒュンフは英語もドイツ語も話せないから何を言っているのかよく分からないけど、彼は健康診断の時、アタシにいつも抱きついて来た。アタシが嫌がってもなかなか彼は離れない。
悪い子じゃなかったけどアタシはヒュンフに体を触られるのが嫌だった。でも騒げばあの巨人が現れる。じっと耐える。
ヒュンフは注射が嫌いだったみたい。
採血や投薬の度に泣くからハンスも困っていた。ヒュンフが泣けばあの巨人が部屋にやって来る。アタシが我慢しても結局ヒュンフは自分が泣いて巨人を呼んでしまうのだから我慢する必要なんて本当は無いのかも知れない。
巨人が現れるとはしゃぎ回っていた子達も一斉に静かになる。
ヒュンフはほとんど吊り上げられた魚みたいになって巨人がそのままハンスの目の前に連れて行った。
注射が終わるとヒュンフはいきなり部屋から連れ去られた。巨人に殴られ、蹴られ、そして壁に向かって投げつけられた。
ヒュンフの泣き声を聞くとしゃくり上げる子が出てくる。それは仕方が無い。
だってアタシ達はまだ8年しか生きていないのだから。
ここでは人に構わない方がいいみたい。自分が殴られないためにはそれが一番だから。
その後も検診の度にヒュンフはアタシにやっぱり抱きついてきて、そして自分の順番になると決まって泣いた。
だから彼の前歯はほとんど折れて無くなっていた。
いつもの様に医務室に集められた時、すっかりやせ細ったヒュンフの姿を見てアタシは驚いた。
ヒュンフは殆ど一人で立っていることも出来ず一列に並ぶ事も難しかった。それでも彼はアタシの姿を見るとニコッと笑っていつもの様にアタシに抱きついて来た。
アタシはヒュンフに体を触られるのが本当に嫌だった。でも…アタシはヒュンフが抱きついてきた時、彼の腕が恐ろしく細い事に驚いた。
それはほとんど骨と皮だけだったから…
アタシはどうすればいいのか戸惑った。
「ヒュンフ…あなた…何をされたの?」
アタシはおずおずと英語で聞いてみた。
するとアタシの背中に生ぬるい液体が落ちてくることに気が付いた。
彼は泣いていた。
誰もヒュンフに抱きつかれているアタシと顔を合わせようとはしない。
ヒュンフは男の子なのに、アタシよりも背が高いのに、でも…彼の体は遥かにアタシよりも軽く、そして枯れ枝の様に細かった。
そして…
彼はアタシの耳元で最近覚えた片言のドイツ語を話してきた。
「I…ch…liebe…dich…Drew…(僕はドリューの事が好きなんだ)」
「W…Was…?」
それは…生まれて初めてアタシが男の子にされた告白だった…
アインの診察が終わったハンスはアタシ達を無視してフィアの検査を始めていた。早くしないとアタシ達は巨人にまた酷い目に遭ってしまう。こんな状態のヒュンフがもし巨人の手にかかれば彼は死んでしまうに決まっていた。
フィアの検査が終わる。
アタシはヒュンフをハンスの前に連れて行こうとしたけど彼は嫌がった。
そのとき、大きな音と共に扉が開け放たれて巨人が現れた。ついにこの時が訪れてしまった。アインを部屋に戻すためだ。巨人がアタシとヒュンフを睨みつけているのがすぐに分かった。ヒュンフは恐ろしさの余り大声で泣き始めた。
アタシ達はいきなり引き離されると思いっきり殴られた。
ヒュンフは更に泣く。
殴られて痛くて泣いているのか、それともアタシと離れ離れになってしまったことが哀しかったのか…ヒュンフは巨人に抱えられてハンスの前に連れて行かれた。
ハンスは関心がないのか、何事も無かったかのように淡々と自分の作業をこなしていく。ハンスの作業が終わると彼はどうなるのか…全員が分かっていた…でも、分かっていながらどうする事も出来なかった…
そして…ヒュンフは巨人に連れて行かれる…
ヒュンフがアタシの前を通り過ぎていく…その時…ヒュンフの手がアタシの頭を掠め、そしてアタシのリボンに触れた。
ヒュンフがアタシのリボンを掴む。
リボンが解けて自分の髪がアタシを責める様に頬に当たる。
何故、あなたはヒュンフを助けようとしないの?まるでそう言われている様だった。
でも、恐ろしさの余りアタシはその場に泥人形の様に立ち尽くすしかなかった…アタシの片方のリボンをヒュンフはしっかりと握り締めていた…
扉が閉められ…そして…ヒュンフの姿は見えなくなった…
アタシの片方のリボンと一緒に…
その日以来、アタシ達がヒュンフの姿を見ることはなかった…
あの時、アタシはどうすればよかったのだろう…嫌がるヒュンフを無理してハンスのところに連れて行けばあるいは彼は…
アタシはあの日以来、リボンを外して髪を下ろしたままにしていた。
壁の向こう側でアインは言う…
「あれは彼が自分で選んだ事なんだ。彼は望んだんだ。他の何よりも君と一緒にいる事をね。彼は知っていた。そして受け入れたんだ。彼の運命を」
「アイン…」
「君が手に持っているそのリボンをどうするのか。それは君次第だよ、エリザ…運命を受け入れるか、あるいは拒絶するのか…」
アタシは暫く手元に残ったもう一つリボンを見詰めていた。そして…髪をたくし上げて後ろで一括りにする事にした。
(改定履歴)
08th July, 2009 / 表現修正
09th July, 2009 / 表現修正
目が覚めると…そこには何もなかった…そしてアタシもいなくなっていた…
アタシの近くにお医者様のような格好をした若い男の人が立っているのが見えた。アタシが目を覚ました事を知るとゆっくりとこっちにやって来る。
「やっと目が覚めたようだね…まあレベル3の投与は大人でもきついからな」
冷たい目だった…
「あ、あの…ここは…」
「ここかい?ふふふ。残念だったね…君は地獄に来たのさ…ドリュー…」
「地獄…」
アタシの名前はドリューというらしい…そして…今…アタシがいる場所は地獄…その意味はすぐに分かった…
アタシは何も着ていなかった…すぐに厚手の綿で作られた作業着の様な服に着替えさせられた。上着の後ろと前には数字の「3」と書かれていた。
若いお医者様のような男の人はハンス・ケラーマンという名前らしい。胸からぶら下げているIDカードを見て知った。
「あの…ケラーマンさん…」
「ドリュー…ここでは君たちの質問には答えてはいけない決まりになっているんだ…」
アタシの方を全く見ようともしないでハンスは面倒臭そうに答えると鉄格子の扉を開いてその中に入るようにアタシを促した。
アタシが戸惑っているとまるで北欧神話に出てくる荒ぶる霜の巨人かと見紛う様な恐ろしい看守がアタシの目の前に現れた。
アタシはあまりの恐ろしさに声も出なかった。
まるで足が凍りついたみたいに動かない。その巨人はアタシを睨みつけるといきなり怒鳴り始めた。
「ぼやぼやするな!!さっさと歩け!!ドリー!!」
酷い訛りで何を言っているのかさっぱり分からない。
恐怖でアタシが立ち竦んでいると、次の瞬間…アタシは大きな手のひらで吹き飛ばされていた。
始めは何が起こったのか、さっぱり分からなかった。自分が殴られたのだと焼き鏝(ゴテ)を当てられた様にどんどんと熱くなっていく右頬、そして滝の様に流れてくる鼻血を見てようやく気が付いた。
アタシは泣いてしまった。
分かっていた…泣けばまた殴られるって…でも…
どんなに我慢しても次から次に涙が溢れて止まらない。口を必死になって押さえても声は漏れてしまう。
だから…アタシはまた殴られた…
堪らず助けを求めてハンスの姿を探す。すると既にハンスは背中を向けて何事も無かった様に廊下を歩いていた。
そして鉄格子の向こうに消えていった。
アタシは一人…嫌でも一人…頼れる人は誰一人としていなかった…自分が何のために生きているのかも分からないまま…
巨人が今度は倒れたアタシの身体を容赦なく靴のまま踏みつけてきた。
「泣くな!!なにをやってるんだ!!」
「うううう!」
アタシの頭は混乱していた…幾ら考えても何かを吸い取られてしまった様に頭は真っ白だった…恐ろしさ…悔しさ…悲しさ…ありとあらゆる感情が渦巻いてアタシの胸は張り裂けそうだった…
でも…ここにいつまでもいるとアタシは本当に踏み殺されてしまう…だから…
アタシは…黙って立った…
「そうだ!!やっと立ったか!!さっさと歩け!!ドリー!!」
やっぱり何を言っているのか全然分からない…
想像力を廻らせる…
アタシは彼の指差す方向へ一先ず恐る恐る歩き始めた…
人の気配の全く無い、静まり返った世界…冷たいコンクリートを裸足で歩いて行くと無個性な鉄の扉が続く…
その一つが悪魔の様にポッカリと口を開けていた…
「入れ!!ここがお前の部屋だ!!」
ねずみ色の小さな部屋にベッドとトイレ…遥かに高いところに小さな窓…
アタシが部屋に入ると扉は荒々しく閉められた。
鼻を両手で押さえたまま冷たい床にしゃがみこむと再び涙が溢れてきた。誰もいない部屋に一人…唯一の救いは今なら泣いても殴られないという事だった…
いつの間にかアタシは眠っていた。
かすかに部屋の片隅から何かの物音が聞こえてくる。コンクリートの壁を叩く小さな音だ。
「誰…」
左隣の部屋からしていた。
アタシは慌てて起き上がると壁に耳を当てた。隣の部屋に誰かいるのが分かった。
「誰…誰かいるの…?」
すると隅のレンガが一つ、突然向こう側から外される。レンガの上から適当に塗られたコンクリートの壁に僅か10cmほどの隙間が現れた。
アタシは穴を覗き込んだ。
「やあ!」
向こう側には綺麗な銀髪の男の子がいた。
歳はアタシと同じくらいだろうか。綺麗な青い目をしていた。彼の目を見たとき、不思議と初めて会った様な気がしなかった。遠い昔に何処かであった様な気さえした。
でも…やっぱり思い違いかもしれない…自分が何故ここにいるかも分からないのに彼を知っている筈がない…
「あなたは誰?」
「覚えていないのかい?」
「え?アタシを知ってるの…ごめんなさい…アタシ…あなたを覚えていないわ…」
「そうかい…じゃあリリンの仕業だね…僕はアイン…ここではそう呼ばれている…」
アタシは小さな隙間に顔を突っ込んでアインと名乗るこの顔をしっかり見ようとした。その気配に気が付いたのか、アインは小さく笑うとアタシと同じ様に壁に開いた小さな穴に自分の顔を押し付けてきた。
「アインというのがあなたの名前なの?」
「そう。君と同じだよ。ここに一番目にやって来たから数字の「1」にちなんでアイン。本当の名前を持っていてもここでは何の役にも立たないからね…」
「本当の名前?」
「そうさ。君が自分の名前だと思い込んでいる「ドリュー」は君が3番目にここに来たからさ。君の本当の名前はドリューじゃない。数字の「3」に因んでいるに過ぎない」
「う、ウソ…」
「本当さ」
アタシは急に悲しくなってまた泣いてしまった。
唯一それだけが今の自分の全てだったのに…それをいきなり失ってしまったら何もかもが崩れていきそうな錯覚に陥った。目の前が真っ暗になり胸が潰れそうになった。
「君、泣いているのかい?悲しませるつもりはなかったんだ。心配しないで…僕は知ってるよ…君の本当の名前を」
「ほ、本当に…?」
アタシは再び壁の隙間に顔を突っ込んだ。さっきと変わらない顔がそこにあった。
「本当さ。君の本当の名前はエリザベートというんだ…」
「エリザ…ベート…?い、痛!」
急に殴られたような痛みが頭の中を走り抜ける。アタシは思わず頭を抱えてコンクリートの床に突っ伏した。
「考えるのを止めて!過去を探ってはいけない!ただ…目の前の事実だけを受け止めるんだ…いいかい?これから僕たちは目の前のことだけを運命として受け止めないといけないんだ。そうすればその苦しみから逃れることが出来る」
「はあ…はあ…どうして…頭が痛くなるの…?」
「さあね…僕にも分からない。僕はこの星に生まれて来て驚いたよ…これほどリリンとは残酷で、これほど自分以外の存在に厳しくて、そして苛烈になれるものなのかとね。まるで自分が万物の創造主であるかの様に振舞う…罪深きものたち…その罪さえも自覚する事はないんだ…」
不思議な少年アイン…
彼はアタシを知っていてアタシは彼のことを知らない…でも…アタシはエリザベートという名前を持つ「ドリュー」と呼ばれる女の子…どうやらそれをまず受け止めることから始めないといけないらしい…
それが今のアタシの全てになるのだから…
アタシ達は恐ろしい看守を「巨人」と呼ぶ事にした。
アタシが北欧神話に出てくるユミルという巨人のお話を聞かせるとアインは手を叩いて喜んだ。巨人は森羅万象の精霊たちのことを意味し、ノルウェーのトロールの伝承にも関係するという。
中でもアインはトーベ・ヤンソンのムーミントロールのお伽噺が大のお気に入りだった。アタシ達はいつの間にか夢中になって話をしていた。
アタシ達の「巨人」は毎日3回、決められた時間に食事を運んでくる。献立は毎日殆ど同じで代わり映えはしなかった。
それが余計に時間の感覚を狂わせた。
乾燥してカチカチになったパンとすっかり冷め切ったスープ。パンは千切ればすぐに粉になる。冷たいスープに浸けて柔らかくして食べた。どうしても食べるのに時間がかかった。残せばそれを理由に巨人に殴られる。
生きるために食べなければならないけどそれはあまりにも苦痛に満ちていた。それでも尚、口にしなければならない自分が酷く惨めに思えた。どうしてこんな思いまでして生きているのか…
でも…死ぬのはもっと怖かった…
この世は皮肉に満ちている。
アタシが何か疑問に思っていると機先を制する様に決まってアインは隙間から諭す様に言ってくる。
今回もそうだった。
食べ物があるという事、いえ、そもそも食べるという行為が如何に素晴らしい事か、考えた事があるのかとアインが言う。
アタシは驚いた。
アタシ達は食べると言う行為に対して普段特に意識する事はないし、ましてそのこと自身に疑問を差し挟む事もしない。
「食べる必要の無いものが…もし、この世に存在するとしたらどうなると思う?」
アタシはその問いに答える事が出来なかった。食べなくても生きていける存在なんて考えた事もなかったから。
アインは言う。
食べる必要の無いものはその糧を味わう事を知らず、またその糧を得る努力と喜びも知らない。そして糧を与えられた恵みに対して主に感謝を捧げることもない。つまり…それは心がない存在なのだという。ヒトの心とは本来、恵みに対して感謝するという精神的衝動なのだ。
アタシは始め全てに絶望していた。そして…ただ生きるためだけに日々の糧を無意味に口にしていた。でも…感謝の祈りだけは必ず捧げる事にした…
「いただきます…」
「イタ、ダキマス…イタダ、キマス…イタダキ、マス…ははは」
「何がおかしいのよ?」
「愉快だからさ。不思議な響きだね?それはなんだい?」
「これは日本語よ。日本の感謝の祈りなんだから」
「日本語?ふーん。君は色々なことを知っているんだね、エリザ」
確かにそうだ…どうしてアタシは日本語を知っているんだろう…
「君はそれ以上考えない方がいいよ。何故、自分が日本語を知っているか、なんてね…受け止めるんだ…」
アインの言う通りだ…考えれば頭が割れそうになるほど痛くなる…それに…早く食べないとまた巨人に酷い目に遭わされる…考える事は許されない…脇目も振らずひたすら前だけを見なければならない…
アタシが現実を離れて苦しみの無い空想の世界で遊べるのは巨人達が寝静まった夜の間だけだった。
お話が聞きたいとせがむアインに物語りを語り、そして歌う時、アタシもまたその世界をアインと二人で冒険することが出来る。
アタシ達は小さな隙間を通して色々な話をする様になっていた。
「君が来る前までそこはツヴァイ(Zwei / 独語「2」)の部屋だったんだよ」
眠ってしまったのかと思っていたアインが突然、何の前触れも無く話しかけてきた。
「え?ツヴァイ?」
アタシが天窓の月明かりに向かって祈っている時だった。
「彼は鳥が大好きだった。時々あの窓の外にやってくる小鳥君を見てはよくはしゃいでいた。小鳥君はいつも楽しそうに歌うんだ。まるでモーツァルトのオペラに出てくるパパゲーノの様にね。自由に…憂いもなく…ただ彼らの歓喜を歌いあげていた…僕たちはそれに合わせてよく一緒に歌ったんだ」
「楽しそうね。ツヴァイは今どこにいるの?」
「彼はもういない」
「どうして?」
「彼は死んだよ。そしてリリンは彼を裏庭に埋めた」
「そんな…」
「彼はゲノムの解析のためだけに必要とされた命だった。リリンとアダムより生れしものとの違いは僅かでしかない…ゲノム情報をベースにした分子動力学計算により得られる波長パターンを取得するのがリリンの意図だったんだろう…彼はあらゆる電磁波を直接照射されて測定に最も適した波長域を持つ電磁波を探る実験に使われた。生かされたとしても彼のDNAダメージはとても言葉では言い表せられない状態だっただろうから…あるいは彼の死は慈悲だったのかもしれない」
「酷いわ…」
あらゆる電磁波…それは人体に有害なX線やγ線なども含むのだろう…可視光を当てられて死ぬわけが無い…そんなものを直接照射するなんて悪魔しか考え付かない様な仕業だ…
「彼がいなくなってここはすっかり静かになってしまった。でもね、確かに彼はここで生きていた。そして小鳥君たちが来ると笑ってジャンプしながら彼は歌っていた。彼の歓喜をね…力いっぱいに…リリンたちにその命を奪われるまで…」
「彼が天に召された後…小鳥君たちも来なくなってしまった…」
「…」
「君を悲しませるつもりはなかったんだ…でも…ありがとう…君のその涙で彼の魂は救われる…主の元に遣わされ…やがてガフの扉が開く時…還るべき場所に戻るだろう…」
アインはやっぱり不思議な子だった…どうして壁で遮られているのにアタシが泣いている事が分かったのだろう…
「君の…その美しい涙は…主がこの地上に下さった恵み…エリザ…僕は感謝の祈りを捧げよう…この恵みに…Amen」
アタシも祈る事にした…自分の犯してしまった罪…その罪により今の自分があるのだから…それに加えて可哀想なツヴァイという子の為に…
チャイルドと呼ばれる子供達がどうやらアタシとアインだけではないらしい事が分かった。
アタシとアインは半月に一度の割合で健康診断と投薬を受けていた。正確にはその両方を受けるのはアタシでアインは健康診断だけだったけど…
この施設で暮らすようになって1ヵ月半後…今までに二回、健康診断を受けたからそうだと思う…三回目になる健康診断の時にアタシ達はコンクリートの壁に囲まれた殺風景な医務室に集められた。
巨人の合図で自分の部屋からいつもの様に廊下に出ると知らない子達が何人もいた。 アタシは驚いて思わず隣にいたアインを見た。アインは小さく首を横に振ってアタシを促した。
全員が前と後ろにゼッケンの様に自分の番号を持っていた。 アタシの番号がみんなより若いという事はみんなアタシの後からここに来たということなのだろうか。あらゆる人種の子がいたけど女の子はいなかった。
女の子はアタシ一人だった。
健康診断はハンス・ケラーマン、アタシがこの施設で知る唯一の大人、がいつも一人で行う。ハンスは人数が増えたからなのか、うんざりしたような顔をしていた。
アタシとアイン以外の子達は部屋の中を走り回ったり、ふざけ合ったりしてはしゃいでいた。
この子達は何処から来たのだろう。
「君は知らない方がいい…」
「え?な、何が?」
「彼らの事さ…知れば君も辛くなる…」
アインはそれ以上何も言わなかった。
検診の時は下着以外の服は全部脱がなければならない。アタシは自分の唯一の持ち物である赤いリボンは何があっても絶対に外さなかった。
ハンスは始めアタシにリボンを外す様に言ったけどアタシはそれを拒否した。ハンスも特にそれを強いる根拠も情熱もなかったみたいでそれ以上何も言わなくなった。
赤いリボンでアタシはいつも左右の髪を束ねていた。
アタシの唯一の財産であり…そして唯一のプライド…
外したら最後、自分という存在、尊厳までなくなってしまいそうで怖かった。
順番はいつもアインが一番だ。
健康診断が一通り終わるとアインはすぐに部屋に戻される。注射や各種測定を受けるのは決まってアタシ達だけだった。
ハンスがアタシの胸に氷の様に冷たい聴診器を当てる。その後は採血と皮下注射、そして時々身体測定やCTスキャンなどの測定があった。
フィア(4)は日本語が少し喋れる東洋人。何処の国かまでは分からないけど英語で会話出来てとても頭がいい子だった。
ゼクス(6)はアフリカ系で綺麗な英語が話せた。アタシ達の中では一番背が高かくて運動が得意だった。
ズィーベン(7)はダークブラウンの瞳に黒髪が似合う白人の男の子で特徴的なアクセントがあった。多分フランス系だろう。いつも神経質そうにそわそわしていた。
アハト(8)は浅黒い肌をしたインドか中東辺りの出身だろう。ビックリするくらい暗算が速くて頭が凄く良かった。
そして…ヒュンフ(独語:5 fünf)はアタシと同じ青い目をしたエンゼルヘアの男の子だった。多分、北欧の出身だと思う。
ヒュンフは英語もドイツ語も話せないから何を言っているのかよく分からないけど、彼は健康診断の時、アタシにいつも抱きついて来た。アタシが嫌がってもなかなか彼は離れない。
悪い子じゃなかったけどアタシはヒュンフに体を触られるのが嫌だった。でも騒げばあの巨人が現れる。じっと耐える。
ヒュンフは注射が嫌いだったみたい。
採血や投薬の度に泣くからハンスも困っていた。ヒュンフが泣けばあの巨人が部屋にやって来る。アタシが我慢しても結局ヒュンフは自分が泣いて巨人を呼んでしまうのだから我慢する必要なんて本当は無いのかも知れない。
巨人が現れるとはしゃぎ回っていた子達も一斉に静かになる。
ヒュンフはほとんど吊り上げられた魚みたいになって巨人がそのままハンスの目の前に連れて行った。
注射が終わるとヒュンフはいきなり部屋から連れ去られた。巨人に殴られ、蹴られ、そして壁に向かって投げつけられた。
ヒュンフの泣き声を聞くとしゃくり上げる子が出てくる。それは仕方が無い。
だってアタシ達はまだ8年しか生きていないのだから。
ここでは人に構わない方がいいみたい。自分が殴られないためにはそれが一番だから。
その後も検診の度にヒュンフはアタシにやっぱり抱きついてきて、そして自分の順番になると決まって泣いた。
だから彼の前歯はほとんど折れて無くなっていた。
いつもの様に医務室に集められた時、すっかりやせ細ったヒュンフの姿を見てアタシは驚いた。
ヒュンフは殆ど一人で立っていることも出来ず一列に並ぶ事も難しかった。それでも彼はアタシの姿を見るとニコッと笑っていつもの様にアタシに抱きついて来た。
アタシはヒュンフに体を触られるのが本当に嫌だった。でも…アタシはヒュンフが抱きついてきた時、彼の腕が恐ろしく細い事に驚いた。
それはほとんど骨と皮だけだったから…
アタシはどうすればいいのか戸惑った。
「ヒュンフ…あなた…何をされたの?」
アタシはおずおずと英語で聞いてみた。
するとアタシの背中に生ぬるい液体が落ちてくることに気が付いた。
彼は泣いていた。
誰もヒュンフに抱きつかれているアタシと顔を合わせようとはしない。
ヒュンフは男の子なのに、アタシよりも背が高いのに、でも…彼の体は遥かにアタシよりも軽く、そして枯れ枝の様に細かった。
そして…
彼はアタシの耳元で最近覚えた片言のドイツ語を話してきた。
「I…ch…liebe…dich…Drew…(僕はドリューの事が好きなんだ)」
「W…Was…?」
それは…生まれて初めてアタシが男の子にされた告白だった…
アインの診察が終わったハンスはアタシ達を無視してフィアの検査を始めていた。早くしないとアタシ達は巨人にまた酷い目に遭ってしまう。こんな状態のヒュンフがもし巨人の手にかかれば彼は死んでしまうに決まっていた。
フィアの検査が終わる。
アタシはヒュンフをハンスの前に連れて行こうとしたけど彼は嫌がった。
そのとき、大きな音と共に扉が開け放たれて巨人が現れた。ついにこの時が訪れてしまった。アインを部屋に戻すためだ。巨人がアタシとヒュンフを睨みつけているのがすぐに分かった。ヒュンフは恐ろしさの余り大声で泣き始めた。
アタシ達はいきなり引き離されると思いっきり殴られた。
ヒュンフは更に泣く。
殴られて痛くて泣いているのか、それともアタシと離れ離れになってしまったことが哀しかったのか…ヒュンフは巨人に抱えられてハンスの前に連れて行かれた。
ハンスは関心がないのか、何事も無かったかのように淡々と自分の作業をこなしていく。ハンスの作業が終わると彼はどうなるのか…全員が分かっていた…でも、分かっていながらどうする事も出来なかった…
そして…ヒュンフは巨人に連れて行かれる…
ヒュンフがアタシの前を通り過ぎていく…その時…ヒュンフの手がアタシの頭を掠め、そしてアタシのリボンに触れた。
ヒュンフがアタシのリボンを掴む。
リボンが解けて自分の髪がアタシを責める様に頬に当たる。
何故、あなたはヒュンフを助けようとしないの?まるでそう言われている様だった。
でも、恐ろしさの余りアタシはその場に泥人形の様に立ち尽くすしかなかった…アタシの片方のリボンをヒュンフはしっかりと握り締めていた…
扉が閉められ…そして…ヒュンフの姿は見えなくなった…
アタシの片方のリボンと一緒に…
その日以来、アタシ達がヒュンフの姿を見ることはなかった…
あの時、アタシはどうすればよかったのだろう…嫌がるヒュンフを無理してハンスのところに連れて行けばあるいは彼は…
アタシはあの日以来、リボンを外して髪を下ろしたままにしていた。
壁の向こう側でアインは言う…
「あれは彼が自分で選んだ事なんだ。彼は望んだんだ。他の何よりも君と一緒にいる事をね。彼は知っていた。そして受け入れたんだ。彼の運命を」
「アイン…」
「君が手に持っているそのリボンをどうするのか。それは君次第だよ、エリザ…運命を受け入れるか、あるいは拒絶するのか…」
アタシは暫く手元に残ったもう一つリボンを見詰めていた。そして…髪をたくし上げて後ろで一括りにする事にした。
Ep#08_(12) 完 / つづく
(改定履歴)
08th July, 2009 / 表現修正
09th July, 2009 / 表現修正
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