新世紀エヴァンゲリオンの二次創作物、小説「Ihr Identität」を掲載するサイトです。初めての方は「このサイトについて」をご参照下さい。小説をご覧になりたい方はカテゴリーからEpisode#を選んで下さい。この物語はフィクションであり登場する人名、地名、団体名等は特に断りが無い限り全て架空のものです。尚、本ホームページに使用した「新世紀エヴァンゲリオン」の画像は(株)ガイナックスのガイドラインに沿って掲載しています。配布や転載は禁止されています。
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第32部 Dies irae 怒りの日(Part-2) / 家族
(あらすじ)
葛城家ではささやかな家族団欒のひと時を迎えていた。それぞれが心に傷を負っていたが悲しみを乗り越えていつしか互いが支えあうようになりつつあった。パーティーが終わり皆が寝静まった頃、一人ベランダで月を眺めていたアスカの傍らにミサトが現れた。
「ミサト…何かあったの?今日…ちょっとアンタ変だった…」
「あんたに相談があるんだけどさ…」
ミサトの相談の内容とは何か?
(あらすじ)
葛城家ではささやかな家族団欒のひと時を迎えていた。それぞれが心に傷を負っていたが悲しみを乗り越えていつしか互いが支えあうようになりつつあった。パーティーが終わり皆が寝静まった頃、一人ベランダで月を眺めていたアスカの傍らにミサトが現れた。
「ミサト…何かあったの?今日…ちょっとアンタ変だった…」
「あんたに相談があるんだけどさ…」
ミサトの相談の内容とは何か?
(本文)
アスカとカヲルの用意した食卓はささやかだったが何処か暖かかった。
レーズン入りのシフォンケーキとアーモンドの入ったマフィンは全て手作りでこのためだけにガスオーブンを二人でわざわざ買っていた。一般家庭と違って料理の道具もほとんど無い葛城家で調理器具から調達するのは並大抵の事ではない。
ミサトと一緒にマンションに戻ったシンジはまずその事に驚愕した。
ひ、人をもてなすのにここまでするのか…
キッチンのあちこちに新しい調理器具が入っていたと思われるダンボールが散乱していた。シンジから30分ほど遅れて久し振りに我が家に帰ってきたミサトも決して広いとはいえないキッチンがちょっとした厨房の様な雰囲気になっていることに戸惑っている様子だった。
「凄いじゃん…あんたにこんな才能があるなんてねえ」
「何言ってんのよ。ケーキくらい作れるわよ」
「ほほう…見た目はそれらしいけどさ…お味のほうはどうだかねえ…」
ミサトは勝手にシフォンケーキをカットして頬張り始めた。アスカが悲鳴を上げる。
「ちょっとおお!!まだみんな揃ってないのにぃ!何勝手に食ってんのよ!この女!サイアクー!!」
「うま。一応食えるわよ、シンちゃん。これ。食べてみる?」
「い、いや…結構です…」
本気で悔しがっているアスカの顔を見たシンジはとてもミサトが差し出しているケーキを手にする勇気が無かった。
「じゃあ全部食べちゃお。うん合格だね」
「当たり前でしょ!」
ミサトは笑いながらリビングに入っていくとTVをつけた。
夕方のニュース番組がいきなり記者に揉みくちゃにされる冬月、ミサト、そして日向の三人の姿をVTRで映し出していた。さすがに国営放送は民放に比べてまだ抑揚が効いてはいたが新政権発足以来、ネルフに対する風当たりは強まるばかりだった。
「やれやれだね…」
落ち着いて一人で涙も流せやしないし…家に帰ってもこれじゃあねえ…あたしの業ってやつか…
ミサトは画面を睨んでいた。
後ろではブツブツ言いながらもアスカがサラダを作り始めていた。
でも…今は一人にならない方がむしろいいのかもね…この子達が一緒にいてくれるからあたしの心も折れないですんでる…これが…家族ってやつなのか…皮肉なもんだね…家族に絶望していたあたしが”家族ごっこ”にいつの間にやら救われてたなんてね…これであたしの決心もようやく付いたわ…
画面は続いてG兵装事故で特務機関ネルフ権限が発動された事に対する国民党の足柄内閣官房長官の批判的な談話が流され始めた。
「このゲス野郎が…」
リビングに大きなため息を一つ残してミサトはそのまま自分の部屋に向かって行った。
ミサトの部屋は昨日からアスカが使っていたが、ミサトが職員宿舎から順次引き上げるため葛城家の領有問題が再び懸案事項になるのは必至だった。部屋の奥からミサトのよく通る声が聞こえてきた。
「今日さあ…レイがウチに来るじゃん?あの子遅くなるから泊めるわよ?」
アスカは90%がサラダ菜で占められている文字通りのグリーンサラダに手製のドレッシングを豪快に放り込みながらキッチンから廊下の方に歩いていく。
「だと思ってた。あの子、残業してるんでしょ?どっちにしても終電には間に合わないだろうし…4人も5人も変わんないし…レイはアインと一緒にリビングのソファベッドに寝れば問題なし!アタシは今日から自分の部屋に戻るからね!」
やっぱり…始まった…
キッチンの椅子に如才げに座っていたシンジは話が領有問題に及んで遠慮がちにため息を付く。シンジの近くで買ったばかり皿を並べていたカヲルがミサトと話をしているアスカの背中に目を向ける。
うわ!カヲル君!まさか参戦する気か!
「アスカ…どうして僕がリビングなんだい?今は僕の部屋…」
アスカはサラダをかき混ぜていた菜ばしをカヲルに向けるとジロッと鋭い視線を送ってきた。
「ていうかさ!アンタの部屋じゃないでしょ!あそこはずっと前からアタシの部屋だったの!何勝手に使ってんのよ!今日はいいけどちゃんと明け渡してもらうからね!着替えも全部回収して!いい?分かった?」
「ええ!そんな!折角…荷物の整理をしたのに…」
カヲルは傍から見て情けなるくらいしょぼんとしていた。
ていうか…元を正せばあそこは僕の部屋だったんだけど…完全に忘れ去られている…でも…
シンジは賑やかな雰囲気にいつの間にか微笑んでいた。
人付き合い…っていうか共同生活って面倒くさいってずっと思っていたけど…こういうのも…悪くないかもしれない…
「仕方が無い…じゃあ僕はシンジ君と一緒に…」
「だ、ダメに決まってるだろ!何でそうなるんだよ!ミラクルバカ!」
やっぱ前言撤回…今のは無し…
メインの料理は第三東京市ではお馴染みの宅配ピザ「OK Pizza」だった。商店街の中核スーパー大安吉日堂の惣菜コーナーでオードブルを賄っていた。
ややケーキ作りに労力が偏っている観は否めなかったが、日ごろの夕食と大差はないパーティーがやがて始まった。
時計の針はすでに夜10時を回っていた。
キッチンには5人の男女が座っている。シンクに背を向けてミサトが座り、その両脇を固めるようにして右側にシンジとアスカ、左側にカヲルとレイが座っていた。
レイだけが第一中学校の制服を着ていたがそれ以外は思い思いの服装をしていた。
今日が当番(当直勤務)だったレイは残業の後、リニア駅からD地区に向かうローカル線に乗らずに直接ミサトのマンションにやって来ていた。レイがミサトのマンションにやって来た時、シンジが玄関にレイを出迎えた。
「綾波」
「こんばんは…碇君…」
その時、レイの白い右手に一本の小さな向日葵が握られているのが目に入ってシンジは胸が少し痛んだ。
パーティーが始まった時、ミサトとカヲルはアスカにプレゼントを渡した。高価なプレゼントには見えなかったが何も用意していなかったシンジは二人からプレゼントを受け取るアスカを正視出来なかった。
喜んでいたのか、がっかりしていたのかも結局分からなかった。
レイが道すがら摘んできた様な向日葵でも持参した事で何も渡さなかったのはシンジだけという事になる。レイの向日葵を見てシンジは折角忘れかけていたそれを再び思い出してしまったのだ。
シンジの案内でキッチンに通されたレイは無造作に小さな向日葵をアスカに向けた。アスカはニヤッと笑ってレイからそれを受け取ると細身のガラスコップに水を入れてテーブルの中央に置いた。
「折角のパーティーなのに花がなかったのは失敗だったと思ってたのよ。アンタ、気が利くわね」
何気ないアスカの言葉だったがシンジにはいちいち胸に響いた。
葛城家の同居人たちもそれを一様に気にする様子もなく、アスカもシンジから何もプレゼントが無い事を特に訝しがる様子もなかった。逆に特別気遣われたわけでもなかったがそれらがかえってシンジの居心地を悪くさせていた。
悪し様に詰られるのも嫌だったが特に触れられないというのも気持ちが悪かった。自分の怠惰な日常が何かを裏切ってしまったような気がしていた。
シンジ自身も精神的に飽和状態だったが一方で未だに三鷹市での生活以来ずっと引きずっている無気力が同居している自分に対して一種の自己嫌悪が刺激されていた。
僕…僕は今まで自分に言い訳ばかりしてきた…決心しても毎日の生活でそれはまた元に戻ってしまう…そんな自分を正当化するために…大人になるって正しい事を言う事じゃない…ブレないって事でもあるんじゃないのか…多分…なんかそんな気がする…正しい事は大人でも子供でも言えるんだから…
シンジは隣に座っているアスカの横顔を見、続いてミサト、カヲル、レイと見回す。ここにいる全員が共通して家族から離れて一人で生きていた。そしてミサトを中心にしてここに集められていた。
他人…でも…他の誰よりもその人のことを知っている…不思議な…自分以外のもう一つの存在…血は繋がっていなくても家族…そう呼べるものがあるんだろうか…そうか…これが…絆なのか…
「そう!家族!」
ミサトは夕日を浴びながら芦ノ湖でシンジに力強く語りかけてきた事を思い出していた。
絆があれば…それでいいってことなのか…それが家族ってものなのか…
今ここでこの瞬間を共有している5人にはそれぞれに深い事情があり、そして不思議な偶然が重なってここに集まっている。その一つ一つの事情を比べて誰が誰に比べて不幸なのか、それを考えるような雰囲気はなかった。
シンジは隣に座っているアスカの顔をチラッと伺う。アスカはミサトとしきりに監禁状態に置かれていた時の愚痴を零していた。ミサトが缶ビールを飲みながら生返事の様な相槌を繰り返している姿がアスカの肩越しに見える。
松代の第二実験場に加持と向かう前に聞いたアスカの半生は驚くべきものだった。シンジはアスカが軍属でミサトから戦闘訓練を受けていたという話はおぼろげながら聞いていた。その時に加持からシンジはアスカの誕生日も聞いていたはずだった(Ep#07_13)。
「友達になってあげて欲しいんだ。あの子とね。勿論迷惑じゃなければの話だよ」
「迷惑だなんて…でも…アスカの方が望んでないかもしれないし…」
「ははは。俺が見たところそれはないな。君次第だと思うよ。でも、ありがとう。何か俺も肩の荷が下りた気がするよ」
家族って何なんだ…友達って…どうして僕は…今日…アスカに何もしてあげられなかったんだろう…僕だけ…
「ちょっと!さっきからアンタ暗いわよ!どうしちゃったの?」
「は、はい!」
突然のアスカの声にシンジの思考は忽(たちま)ちかき消される。
「ケーキ食べた?」
「う、うん…その…」
「何よ?」
「美味しかった…」
「なーにそれ?改まっちゃってさ。でも…ありがと」
アスカがシンジからチラッとミサトの方に流し目を送った。ミサトはアスカと目が合うと慌てて背筋を伸ばした。アスカはわずかに頬を膨らませる。
「どうしちゃったの?二人とも…何か上の空っていうか…心ここにあらずって感じね…特にミサト!」
「え?そ、そんなこと無いわよ。それにしてもさあ…あんたももう15か…時の流れはホント早いわね…」
ミサトが椅子の上で片膝を付いたままで隣に座っているアスカを今度はマジマジと見始める。
「き、急になによ…そんなしみじみしちゃってさあ…久し振りに会えたからちょっとおセンチになってるだけってことなら別にそれでもいいけどさ…」
「あんたと会った時はまだこんなんだったのにさあ…」
ミサトは左手に缶ビールを持ったまま右手で自分の肩口の高さを示していた。それを見たアスカの顔が一瞬強張った様に隣に座っていたシンジには見えた。
「ちょっと…もういいじゃん…その頃の話は…」
「ああ…そうね…ごめんごめん…でも…あんた、本当におっきくなったわねえ…背なんかあたしとそう変わんないじゃん?でもさ」
ミサトはニヤッと笑うといきなり手を伸ばしてキャミソールの上からアスカの胸を鷲掴みした。
「ぎゃああああ!!ちょ、ちょっと!!何やってんのよ!アンタ!怒るわよ!!」
「ははは!こっちの方はまだまだ負けてないわね。まだCだね」
「さ、サイアクの上司だわ…そういうのセクハラ?パワハラ?ん?セクハラか…とにかくそう言うのよ!世間的には!!」
アスカの顔は真っ赤になっていた。
「いやあ、すっかり盛り上がってるみたいだね。ははは」
コーラを片手に二人のやり取りを見ていたカヲルが引き取り手のいないピザに手を伸ばしながら言った。
「どこがよ?さっきからみんなのテンションは超低空飛行じゃん。まあ…レイはいつも通りみたいだけどさ」
アスカはテーブルに肩肘を付くとレイの方に視線を送った。レイは周囲の様子に構うことなくカヲルが切り分けたシフォンケーキを黙々と口に運んでいた。
アスカが食卓に片肘を付くと正面に座っているレイの顔を覗き込む。アスカの視線に気が付いたレイがきょとんとした目でアスカの顔を見る。
「何?…」
「べっつにぃ…でも…アンタってさ…よく見るとかわいい顔してんのね」
「ぶっふぉおおお!!」
アスカの言葉が終わらないうちにシンジがいきなり口に含んでいたアップルティーを吹き出した。悪役レスラーが吐く毒霧の様にシンジの正面に座っていたカヲルの顔面に全て吹きかかる。
「ちょ、ちょっとお!シンちゃん!」
「何いきなり吹いてんのよ、アンタ!!き、汚いわね!」
「ご、ごめ…ゲホ!ゲホ!ゲホ!」
アスカが…急に…変なこと言うからじゃないか…
アスカはまるで干した布団を叩く様にシンジの背中を荒々しく叩きながら顔から雫を滴らせているカヲルの顔を見た。
「アイン!アンタも大丈夫なの?」
カヲルは舌を出してペロッと口の周りに付いていた水滴を舐めるとにっこりと微笑む。
「シンジ君は甘党なんだね?すっごく甘いよ、これ…砂糖入れすぎじゃないかな?」
「聞いてないから、砂糖のことは!そんなことよりさあ!あ…」
言いかけていたアスカは思わず言葉を呑み込んだ。カヲルの隣に座っていたレイがすっと白いハンカチを取り出すと黙ってカヲルの顔を拭き始めた。その驚くべき光景にミサト、アスカ、シンジは一瞬固まっていた。
「な、なによ…これ…何かイヤーンな感じねえ…お二人さん」
ミサトが缶ビールをテーブルに置きながらカヲルとレイの方に向き直る。レイがカヲルの顔を拭う度に面白いほどカヲルの顔が歪んでいた。カヲルはレイを見詰めたまま成すがままになっていた。
「ありがとう。リリス。素敵なハンカチだね。君の家の洗剤はシンジ君と同じホワイティー(この世界の一般家庭ではお馴染みの洗剤の商品名)かい?」
「いいえ…水道水で濯いでいるだけ…」
「そうか…どうりでさっきから顔がヒリヒリすると思ったよ…柔軟剤も使った方がいい…僕も最近シンジ君から習ったんだ…」
「どうして布を無理やり柔らかくする必要があるの?…」
「確かにそうだね…君の言う通り布は布…綺麗で乾いていればそれでいい気もする…でもリリンはそれでは満足しない…それは多分…今の君みたいに力いっぱい僕の顔を拭くと痛いからだと思う…」
「あなた…痛いの?」
「うん…超痛い…」
「紅茶がまだ滴ってるわ…」
「だから…痛いんだけど…」
レイはカヲルを無視して今度は顔の反対側をごわごわのハンカチで拭き始めた。カヲルの顔はにらめっこの顔以上に面白く変化する。
「おやおや…ちょっと見ない間に仲のお宜しい事で…ラブラブじゃーん」
アスカは悪戯っぽく笑うとテーブルに頬杖をついて二人のやり取りを見詰めていた。
「そ、そうかな…そうは見えないけど…」
カヲルは手で静かにレイに抵抗していたが全てレイに振り払われる。シンジの目から見て両頬を擦られているカヲルは本気で嫌がっている様に見えた。
「そうだ!ねえ…あのさ…シ、シンジ…」
「な、何?」
「ゲームしない?」
「ゲームって…べ、別にいいけど…」
「ホント?」
アスカは勢いよく席を立つとキッチンを抜けてリビングに走って行った。シンジもおずおずとその後についていく。アスカは50型の薄型TVの下に置かれている背の低いオーディオラックをごそごそと漁っていたがゲーム機本体と数枚のソフトが入った木箱を取り出す。
「昨日見つけたのよ。これ!エルブス(die Erbse /独語 豆)みたいでかわいいでしょ?」
「エルブス…」
「何かとっても面白そうだったんだけど…やり方とか…よく分かんないしさ…」
一緒によくやってたゲームなのに(Ep#01_2)…やっぱり…加持さんが言っていた昔の事だけじゃなくて…最近の事でも記憶が一部無いのか…だから…僕の事がよく分からなくなっているって事なのか…だから…許されているだけで記憶が戻れば…またケンカしちゃうのかな…僕…今のアスカじゃないとダメなんじゃないのかって思ってる…自分に都合がいいだけの今のアスカじゃないと…でもそれは本当のアスカじゃない…僕の言った事が今のアスカの全てになっていくなら…僕は…自分のことだけを考えちゃダメなんじゃないのか…
不意にアスカの白い手がシンジの鼻先で振られてシンジはハッとする。
「もっしもーし?何考えてんの?怖い顔しちゃってさあ…」
「あ…い、いや…何でもないんだ…じゃ、じゃあセットするよ」
シンジはアスカから木箱を受け取るとオーディオラックの前に座った。その隣にほとんど密着するほどの距離でアスカが座ってきた。シンジは思わず驚いてアスカの方を見る。
「な、何よ…」
「い、いや・・・別に…」
僕は最低だ…嘘をついてる…人の不幸に付け込むってこういう事を言うんじゃないのか…でも…今を大切にしたい…折角…仲良くなれたのに…そんな事言えるはずが無いじゃないか…僕はバカで…情けなくて…何もしてあげられない人なんだって…そんなの…自分からハッキリ言う人なんているわけ無いよ…絶対に!そうだよ!僕だけじゃない筈だよ!別にいいじゃないか…今さえよければ…
「あれえ?!」
アスカの声に驚いたシンジは思わず配線する手を止める。
「ど、どうしたの?」
「TVのリモコンが無いわ…」
リモコンくらい…シンジがそう思って胸をなでおろしかけた瞬間、アスカはすっと立ち上がるとキッチンにズカズカと向かって行く。
「ちょっとお!ミサト!」
「あ、アスカ…別にリモコンが無くたって…遊べるの…に」
急に名前を呼ばれたミサトは椅子の上で身体をビクッとさせるとリビングからキッチンに入ってくるアスカの方を慌てて見る。ミサトはミサトで何か考え事をしていたらしい。
「な、何よ?あんた…いきなり大声なんか出しちゃってさあ…」
「そんなことよりTVのリモコンは?どこにやったのよ?ゲームできないじゃん!」
「え?り、リモコン?!」
「そうよ!さっき操作してた!」
「あ…そ、そういやそうね!ははは!やっベー!どこ行っちゃったのかなあ?あれ?」
ミサトは椅子から立ち上がるとわざとらしく食卓の上に無造作に置かれている宅配ピザの箱を持ち上げ始めた。本人もそんなところにあるとは全く期待していないにも拘らずその場を取り繕う様なミサトの行動を見てアスカはむしろ心配そうな眼差しを自分たちの保護者に向けていた。
やっぱりミサトの様子がどこかおかしい…何かあったのかしら…
アスカの視線に気が付いたミサトは再び作ったような笑いを浮かべた。アスカの中で何かが確信に変わる。
「探しついでにあたしは(自分の」部屋に戻るわ」
「ええ!?別に戻らなくたっていいじゃん。そこまでしてゲームがやりたいわけじゃないしさ…」
「でもさあ、やっぱ無いと不便でしょ?」
「そ、そりゃあ…そうだけど…」
「でしょ?あっち探してくるわ!ええっと…リモコン…リモコンはっと…」
ミサトはまるでアスカの視線から逃れるようにしてキッチンを出て行く。
「ちょっと!ミサト!」
カヲルは自分の部屋にビールと冷めたピザを乗せた皿を持って立ち上がるミサトの背中をじっと見詰めていた。
「どうしちゃったのかしら?ミサト…変なの…」
後に残されたアスカが今度は視線を自分に向けているのに気が付いたカヲルはにっこりとアスカに微笑みかける。
「ミサトさんにも色々事情があるみたいだね…アスカ…」
「アイン…アンタは何か見えたの?ミサトのこと…」
カヲルはそれには答えずゆっくりと立ち上がる。
「さあね…どう言っていいのか…僕にもよく分からない…」
カヲルが自分の食器を手に取る。
「さて、片付けようか…どうやらパーティーも終わりみたいだしね…」
それを合図にその場にいた全員が無言のうちに片付け始めた。
夜中の第三東京市にセミの鳴き声だけが響いていた。
芦ノ湖から吹く風がビルの谷間を抜けて流れてくる。満月に近い月が辺りを照らしている。葛城家はすっかり寝静まっていた。
アスカは月明かりを浴びながら一人ベランダで一つまた一つと灯りが落ちていく街並みを眺めていた。右手には缶ビールが握られていた。ミサトの在庫から拝借したものだった。
「何でだろ…折角帰ってきたのに…自分の家って感じがしない…」
振り出しに戻っちゃったからかな…積み重ねても積み重ねても穴の開いたボウルみたいにすり抜けていく…
「いつまでこんな事を繰り返せばいいのか…」
「アスカ?」
アスカがビールをあおった瞬間、後ろからミサトの声が聞こえてきた。驚いたアスカは途端に咳き込み始めた。
「ゲホ!ゲホ!ゲホ!」
「ちょっと、あんた何やってんの?早く息しなきゃ死ぬわよ?」
「わ、分かってるわよ!ぜえ…ぜえ…ぜえ…き、急に話しかけないでよ!ふう…死ぬかと思ったわ…」
アスカはハッとしてミサトの顔を見た。
ミサトは何も言わずアスカの右手に握られていた缶を引っ手繰る様にして手に取ると一気にそれを飲み干した。空になった缶を右手だけで握り潰すとベランダの片隅に向かって放り投げる。
カランカランカラン…
コンクリートの上で潰れたアルミ缶が乾いた音を立てた。アスカはその音にわずかに肩をビクつかせる。
「ごめん…」
二人しかいないベランダにアスカの沈んだ声が響いた。ミサトはじろっとアスカの方を見たがそれには何も答えずベランダの欄干に肘を乗せてビルとビルの間からわずかに見える芦ノ湖を見詰め始めた。
奇妙な沈黙が少し続いた後、ミサトが遠くを走る車を目で追いながら言う。
「たとえここがドイツだったとしても飲酒は16歳からじゃなかったっけか、ね…」
アスカは俯いた。
「久し振りに一緒に家にいるってのに説教するつもりはないけどさ…あんた…旨いと思って飲んでないでしょ…それ…」
「うん…」
ミサトは自分の隣でうな垂れて立っているアスカの方を見た。
「じゃあそれはビールに対して失礼だよ。あたしはずぼらで酒しか楽しみの無い生活破綻者だけどさあ…少なくとも不味いと思いながら酒を飲んだ事はただの一度としてない…酒の味が分からないなら飲む意味も無い…不味いならあんたにはまだ早いんだよ…まあ…あたしが言いたい事は…そういうこった…」
「ごめん…」
「あたしに謝っても仕方がないよ…謝るならビールに謝んな…」
「ビールさん…ごめんなさい…」
アスカの言い回しがおかしかったのか、ミサトはわずかに口元を綻ばせた。
「ほう…不良の癖に素直じゃん。じゃあついでにもう一回…今度は自分に謝りなさい…自分をいじめて悪かったってね…」
「ごめんなさい…」
「よし」
再びベランダに静寂が戻った。暫く二人は並んで夜景を見ていた。最初は殴られると警戒していたアスカだったが恐る恐るミサトとの距離を詰める。
「昔は12月が嫌いでさあ…」
不意にミサトの声がベランダに響いた。
「ど、どうして?」
「あたしもあんたと同じで誕生日が12月じゃん?クリスマスと同じ月でしょ?だからあたしは子供の時から誕生日とクリスマスを一緒にされてたんだよ…クリスマスの日にさ…お誕生日おめでとう!アンドメリークリスマス!てね…酷いときは盆も正月もみーんな一緒だった…」
「まさかあ。いくらなんでもハッピーバースデー&メリークリスマス&アハッピーニューイヤーってことは幾らなんでも…」
「それがさあ…マジなんだよね…それにあたしは一人っ子だったからね…あたしの誕生日が唯一の家族のイベントっつうかさ…」
結局…家族っていうのは名ばかりで…何が家族なんだか…あたしにはよく分からなかった…
「そうなんだ…」
「だから…なんで別の月に生まれなかったんだろうっていつも恨んでた…そんでさ…バカみたいだけど誕生日とクリスマスをきちんと別々に祝ってくれる人のお嫁さんになるってのが昔のあたしの夢でさあ…でも…大人になって恋人が出来てもやっぱ一纏めだったよ…働き始めてからかな?面倒がなくていいかって思うようになったのは…」
「ミサト…」
「何?」
「その…何かあったの?今日…アンタ変だったから…」
「そうね…何もないって言えば嘘になるわね…でも…今は言えない…それじゃ駄目?」
「プライベートな事なら仕方がないけど…」
それって多分…アタシにも関係がある事の様な気がする…アインはミサトから何かを感じていたみたいだし…
「ねえ…アスカ…あんたに相談があるんだけどさ…いいかな?」
「え?相談?」
「うん…こんな事を言うのは…正直慣れてないから…照れ臭い…いや違うな…何なんだろうな」
「何よ?モジモジしてるの?アンタのキャラじゃないわよ?」
「あのさ…あんたさえよければ…あたしのさあ…妹にならない?」
「い、いも…」
アスカの顔が引きつっていた。
「それって…まさか…アンタにそういう趣味があったなんて…ショックだわ…まさかそれが言いたくて様子が変だったの?胸とか触ってくるし…」
「おい…話が凄い方向に行ってない?それ…バカじゃないの?あんた!ウチ(葛城家)の子にならないかって言ってんだよ!そうすればあんたは国籍とかさ、戸籍とかの心配しなくて済むでしょ?何があってもさ!」
「か、葛城家の子…」
アタシとミサト…いや大尉とは戦友だから?付き合いが長いから?…そんなことない…10年以上も上司と部下という関係は国連軍では珍しい事じゃない…大尉は…あの日を境にまるで友達のようにアタシに接するようになった…アタシはそれに甘えて今日まで生きてきた…でも…アタシの心の中ではやっぱり大尉は大尉だった…なのに…どうしてアタシは大尉をミサトと呼べるの?どうして大尉は…
「そうだよ!まあ…その…葛城アスカってのはちょっち語呂わりいけどさ…それであんたは地に足をつけてだねえ…」
「どうして…どうしてそんな事を急に…」
アスカはミサトの言葉をさえぎる様に呟いていた。
「何でって…そう言われると困るけどさ…」
どうして…そんなに優しくしてくれるんですか…アタシ…このまま甘えて生きてもいいんですか…
「まあ…強いて理由を挙げれば…家族…だからかな…確かに血は繋がってないけど…逆に血が繋がっていても相克しあう家族の例もある…あたしも年取ったのかな…今日は特に寂しくてね…だからって言って今日思いついた話じゃないんだ…ずっと考えていたことだったしね…それに…」
マンションのすぐ下を一台のハイブリッドカーが音も無く通り過ぎていった。
「下なら妹がいいって思ってた…まあ…唐突過ぎるよね…ダメ…かな…?」
アスカは俯いたままだった。
ミサト…
「条件があるわ…」
「何?」
ミサトは顔を上げる。そしてアスカと対するように正面に向き直って不安そうな顔を浮かべた。アスカは目を伏せたままだった。
「そんな…大した条件じゃないんだけど…前から気になっていた事がある…」
「そ、それは?」
「リビングのカーペット替えて…」
「か、カーペットを?」
ミサトは驚いた様な顔をしていた。
「うん…それがアタシからの条件…って…ちょっと…何悩んでるわけ!?悩むとこじゃないじゃん!感動するとこじゃないの!?」
「うーん…ぶっちゃけ金ないんだよね…今…ははは…」
ミサトは茶化す様に笑う。
サイテー!言うんじゃ無かった!
アスカは腹立ち紛れにジロッとミサトの顔を見る。そんなに背格好の変わらない自分の正面に立っている保護者の顔を見てハッとした。ミサトは泣いていた。笑いながら大粒の涙をぼろぼろと零していた。
「今…お金ないけどさ…でも…その約束を果たせば…(養子縁組に)同意するんだね?あんた…」
ミサトがアスカの両肩をガシッと掴む。大人の涙に気圧されたアスカは思わず視線を逸らした。
「べ、別に…履行しなくたって…いいけど…」
「それであんたはOKなんだね!」
「う…うん…」
ミサトはアスカをそのまま抱きしめていた。それはあまりにも力強く痛いほどだった。しかし、暖かかった。
「よっしゃ!交渉成立だ!きっとだよ!あんた!嘘つきは嫌いだかんね…」
「み、ミサ…ト…くるし…」
ミサトの腕の中でアスカはただ抱きしめられたまま宙を見ていた。
「ミサト…」
アスカは喉元まで出掛かった言葉を飲み込んでいた。三日月と満天の星だけが二人の約束を聞いていた。
こうして約束を交わした二人だったがミサトのマンションのカーペットが替わる事はなかった…それは後の話ということになる…
2015年12月4日 夜 第三東京市内 葛城家 晴れ 気温27.5℃
アスカとカヲルの用意した食卓はささやかだったが何処か暖かかった。
レーズン入りのシフォンケーキとアーモンドの入ったマフィンは全て手作りでこのためだけにガスオーブンを二人でわざわざ買っていた。一般家庭と違って料理の道具もほとんど無い葛城家で調理器具から調達するのは並大抵の事ではない。
ミサトと一緒にマンションに戻ったシンジはまずその事に驚愕した。
ひ、人をもてなすのにここまでするのか…
キッチンのあちこちに新しい調理器具が入っていたと思われるダンボールが散乱していた。シンジから30分ほど遅れて久し振りに我が家に帰ってきたミサトも決して広いとはいえないキッチンがちょっとした厨房の様な雰囲気になっていることに戸惑っている様子だった。
「凄いじゃん…あんたにこんな才能があるなんてねえ」
「何言ってんのよ。ケーキくらい作れるわよ」
「ほほう…見た目はそれらしいけどさ…お味のほうはどうだかねえ…」
ミサトは勝手にシフォンケーキをカットして頬張り始めた。アスカが悲鳴を上げる。
「ちょっとおお!!まだみんな揃ってないのにぃ!何勝手に食ってんのよ!この女!サイアクー!!」
「うま。一応食えるわよ、シンちゃん。これ。食べてみる?」
「い、いや…結構です…」
本気で悔しがっているアスカの顔を見たシンジはとてもミサトが差し出しているケーキを手にする勇気が無かった。
「じゃあ全部食べちゃお。うん合格だね」
「当たり前でしょ!」
ミサトは笑いながらリビングに入っていくとTVをつけた。
夕方のニュース番組がいきなり記者に揉みくちゃにされる冬月、ミサト、そして日向の三人の姿をVTRで映し出していた。さすがに国営放送は民放に比べてまだ抑揚が効いてはいたが新政権発足以来、ネルフに対する風当たりは強まるばかりだった。
「やれやれだね…」
落ち着いて一人で涙も流せやしないし…家に帰ってもこれじゃあねえ…あたしの業ってやつか…
ミサトは画面を睨んでいた。
後ろではブツブツ言いながらもアスカがサラダを作り始めていた。
でも…今は一人にならない方がむしろいいのかもね…この子達が一緒にいてくれるからあたしの心も折れないですんでる…これが…家族ってやつなのか…皮肉なもんだね…家族に絶望していたあたしが”家族ごっこ”にいつの間にやら救われてたなんてね…これであたしの決心もようやく付いたわ…
画面は続いてG兵装事故で特務機関ネルフ権限が発動された事に対する国民党の足柄内閣官房長官の批判的な談話が流され始めた。
「このゲス野郎が…」
リビングに大きなため息を一つ残してミサトはそのまま自分の部屋に向かって行った。
ミサトの部屋は昨日からアスカが使っていたが、ミサトが職員宿舎から順次引き上げるため葛城家の領有問題が再び懸案事項になるのは必至だった。部屋の奥からミサトのよく通る声が聞こえてきた。
「今日さあ…レイがウチに来るじゃん?あの子遅くなるから泊めるわよ?」
アスカは90%がサラダ菜で占められている文字通りのグリーンサラダに手製のドレッシングを豪快に放り込みながらキッチンから廊下の方に歩いていく。
「だと思ってた。あの子、残業してるんでしょ?どっちにしても終電には間に合わないだろうし…4人も5人も変わんないし…レイはアインと一緒にリビングのソファベッドに寝れば問題なし!アタシは今日から自分の部屋に戻るからね!」
やっぱり…始まった…
キッチンの椅子に如才げに座っていたシンジは話が領有問題に及んで遠慮がちにため息を付く。シンジの近くで買ったばかり皿を並べていたカヲルがミサトと話をしているアスカの背中に目を向ける。
うわ!カヲル君!まさか参戦する気か!
「アスカ…どうして僕がリビングなんだい?今は僕の部屋…」
アスカはサラダをかき混ぜていた菜ばしをカヲルに向けるとジロッと鋭い視線を送ってきた。
「ていうかさ!アンタの部屋じゃないでしょ!あそこはずっと前からアタシの部屋だったの!何勝手に使ってんのよ!今日はいいけどちゃんと明け渡してもらうからね!着替えも全部回収して!いい?分かった?」
「ええ!そんな!折角…荷物の整理をしたのに…」
カヲルは傍から見て情けなるくらいしょぼんとしていた。
ていうか…元を正せばあそこは僕の部屋だったんだけど…完全に忘れ去られている…でも…
シンジは賑やかな雰囲気にいつの間にか微笑んでいた。
人付き合い…っていうか共同生活って面倒くさいってずっと思っていたけど…こういうのも…悪くないかもしれない…
「仕方が無い…じゃあ僕はシンジ君と一緒に…」
「だ、ダメに決まってるだろ!何でそうなるんだよ!ミラクルバカ!」
やっぱ前言撤回…今のは無し…
メインの料理は第三東京市ではお馴染みの宅配ピザ「OK Pizza」だった。商店街の中核スーパー大安吉日堂の惣菜コーナーでオードブルを賄っていた。
ややケーキ作りに労力が偏っている観は否めなかったが、日ごろの夕食と大差はないパーティーがやがて始まった。
時計の針はすでに夜10時を回っていた。
キッチンには5人の男女が座っている。シンクに背を向けてミサトが座り、その両脇を固めるようにして右側にシンジとアスカ、左側にカヲルとレイが座っていた。
レイだけが第一中学校の制服を着ていたがそれ以外は思い思いの服装をしていた。
今日が当番(当直勤務)だったレイは残業の後、リニア駅からD地区に向かうローカル線に乗らずに直接ミサトのマンションにやって来ていた。レイがミサトのマンションにやって来た時、シンジが玄関にレイを出迎えた。
「綾波」
「こんばんは…碇君…」
その時、レイの白い右手に一本の小さな向日葵が握られているのが目に入ってシンジは胸が少し痛んだ。
パーティーが始まった時、ミサトとカヲルはアスカにプレゼントを渡した。高価なプレゼントには見えなかったが何も用意していなかったシンジは二人からプレゼントを受け取るアスカを正視出来なかった。
喜んでいたのか、がっかりしていたのかも結局分からなかった。
レイが道すがら摘んできた様な向日葵でも持参した事で何も渡さなかったのはシンジだけという事になる。レイの向日葵を見てシンジは折角忘れかけていたそれを再び思い出してしまったのだ。
シンジの案内でキッチンに通されたレイは無造作に小さな向日葵をアスカに向けた。アスカはニヤッと笑ってレイからそれを受け取ると細身のガラスコップに水を入れてテーブルの中央に置いた。
「折角のパーティーなのに花がなかったのは失敗だったと思ってたのよ。アンタ、気が利くわね」
何気ないアスカの言葉だったがシンジにはいちいち胸に響いた。
葛城家の同居人たちもそれを一様に気にする様子もなく、アスカもシンジから何もプレゼントが無い事を特に訝しがる様子もなかった。逆に特別気遣われたわけでもなかったがそれらがかえってシンジの居心地を悪くさせていた。
悪し様に詰られるのも嫌だったが特に触れられないというのも気持ちが悪かった。自分の怠惰な日常が何かを裏切ってしまったような気がしていた。
シンジ自身も精神的に飽和状態だったが一方で未だに三鷹市での生活以来ずっと引きずっている無気力が同居している自分に対して一種の自己嫌悪が刺激されていた。
僕…僕は今まで自分に言い訳ばかりしてきた…決心しても毎日の生活でそれはまた元に戻ってしまう…そんな自分を正当化するために…大人になるって正しい事を言う事じゃない…ブレないって事でもあるんじゃないのか…多分…なんかそんな気がする…正しい事は大人でも子供でも言えるんだから…
シンジは隣に座っているアスカの横顔を見、続いてミサト、カヲル、レイと見回す。ここにいる全員が共通して家族から離れて一人で生きていた。そしてミサトを中心にしてここに集められていた。
他人…でも…他の誰よりもその人のことを知っている…不思議な…自分以外のもう一つの存在…血は繋がっていなくても家族…そう呼べるものがあるんだろうか…そうか…これが…絆なのか…
「そう!家族!」
ミサトは夕日を浴びながら芦ノ湖でシンジに力強く語りかけてきた事を思い出していた。
絆があれば…それでいいってことなのか…それが家族ってものなのか…
今ここでこの瞬間を共有している5人にはそれぞれに深い事情があり、そして不思議な偶然が重なってここに集まっている。その一つ一つの事情を比べて誰が誰に比べて不幸なのか、それを考えるような雰囲気はなかった。
シンジは隣に座っているアスカの顔をチラッと伺う。アスカはミサトとしきりに監禁状態に置かれていた時の愚痴を零していた。ミサトが缶ビールを飲みながら生返事の様な相槌を繰り返している姿がアスカの肩越しに見える。
松代の第二実験場に加持と向かう前に聞いたアスカの半生は驚くべきものだった。シンジはアスカが軍属でミサトから戦闘訓練を受けていたという話はおぼろげながら聞いていた。その時に加持からシンジはアスカの誕生日も聞いていたはずだった(Ep#07_13)。
「友達になってあげて欲しいんだ。あの子とね。勿論迷惑じゃなければの話だよ」
「迷惑だなんて…でも…アスカの方が望んでないかもしれないし…」
「ははは。俺が見たところそれはないな。君次第だと思うよ。でも、ありがとう。何か俺も肩の荷が下りた気がするよ」
家族って何なんだ…友達って…どうして僕は…今日…アスカに何もしてあげられなかったんだろう…僕だけ…
「ちょっと!さっきからアンタ暗いわよ!どうしちゃったの?」
「は、はい!」
突然のアスカの声にシンジの思考は忽(たちま)ちかき消される。
「ケーキ食べた?」
「う、うん…その…」
「何よ?」
「美味しかった…」
「なーにそれ?改まっちゃってさ。でも…ありがと」
アスカがシンジからチラッとミサトの方に流し目を送った。ミサトはアスカと目が合うと慌てて背筋を伸ばした。アスカはわずかに頬を膨らませる。
「どうしちゃったの?二人とも…何か上の空っていうか…心ここにあらずって感じね…特にミサト!」
「え?そ、そんなこと無いわよ。それにしてもさあ…あんたももう15か…時の流れはホント早いわね…」
ミサトが椅子の上で片膝を付いたままで隣に座っているアスカを今度はマジマジと見始める。
「き、急になによ…そんなしみじみしちゃってさあ…久し振りに会えたからちょっとおセンチになってるだけってことなら別にそれでもいいけどさ…」
「あんたと会った時はまだこんなんだったのにさあ…」
ミサトは左手に缶ビールを持ったまま右手で自分の肩口の高さを示していた。それを見たアスカの顔が一瞬強張った様に隣に座っていたシンジには見えた。
「ちょっと…もういいじゃん…その頃の話は…」
「ああ…そうね…ごめんごめん…でも…あんた、本当におっきくなったわねえ…背なんかあたしとそう変わんないじゃん?でもさ」
ミサトはニヤッと笑うといきなり手を伸ばしてキャミソールの上からアスカの胸を鷲掴みした。
「ぎゃああああ!!ちょ、ちょっと!!何やってんのよ!アンタ!怒るわよ!!」
「ははは!こっちの方はまだまだ負けてないわね。まだCだね」
「さ、サイアクの上司だわ…そういうのセクハラ?パワハラ?ん?セクハラか…とにかくそう言うのよ!世間的には!!」
アスカの顔は真っ赤になっていた。
「いやあ、すっかり盛り上がってるみたいだね。ははは」
コーラを片手に二人のやり取りを見ていたカヲルが引き取り手のいないピザに手を伸ばしながら言った。
「どこがよ?さっきからみんなのテンションは超低空飛行じゃん。まあ…レイはいつも通りみたいだけどさ」
アスカはテーブルに肩肘を付くとレイの方に視線を送った。レイは周囲の様子に構うことなくカヲルが切り分けたシフォンケーキを黙々と口に運んでいた。
アスカが食卓に片肘を付くと正面に座っているレイの顔を覗き込む。アスカの視線に気が付いたレイがきょとんとした目でアスカの顔を見る。
「何?…」
「べっつにぃ…でも…アンタってさ…よく見るとかわいい顔してんのね」
「ぶっふぉおおお!!」
アスカの言葉が終わらないうちにシンジがいきなり口に含んでいたアップルティーを吹き出した。悪役レスラーが吐く毒霧の様にシンジの正面に座っていたカヲルの顔面に全て吹きかかる。
「ちょ、ちょっとお!シンちゃん!」
「何いきなり吹いてんのよ、アンタ!!き、汚いわね!」
「ご、ごめ…ゲホ!ゲホ!ゲホ!」
アスカが…急に…変なこと言うからじゃないか…
アスカはまるで干した布団を叩く様にシンジの背中を荒々しく叩きながら顔から雫を滴らせているカヲルの顔を見た。
「アイン!アンタも大丈夫なの?」
カヲルは舌を出してペロッと口の周りに付いていた水滴を舐めるとにっこりと微笑む。
「シンジ君は甘党なんだね?すっごく甘いよ、これ…砂糖入れすぎじゃないかな?」
「聞いてないから、砂糖のことは!そんなことよりさあ!あ…」
言いかけていたアスカは思わず言葉を呑み込んだ。カヲルの隣に座っていたレイがすっと白いハンカチを取り出すと黙ってカヲルの顔を拭き始めた。その驚くべき光景にミサト、アスカ、シンジは一瞬固まっていた。
「な、なによ…これ…何かイヤーンな感じねえ…お二人さん」
ミサトが缶ビールをテーブルに置きながらカヲルとレイの方に向き直る。レイがカヲルの顔を拭う度に面白いほどカヲルの顔が歪んでいた。カヲルはレイを見詰めたまま成すがままになっていた。
「ありがとう。リリス。素敵なハンカチだね。君の家の洗剤はシンジ君と同じホワイティー(この世界の一般家庭ではお馴染みの洗剤の商品名)かい?」
「いいえ…水道水で濯いでいるだけ…」
「そうか…どうりでさっきから顔がヒリヒリすると思ったよ…柔軟剤も使った方がいい…僕も最近シンジ君から習ったんだ…」
「どうして布を無理やり柔らかくする必要があるの?…」
「確かにそうだね…君の言う通り布は布…綺麗で乾いていればそれでいい気もする…でもリリンはそれでは満足しない…それは多分…今の君みたいに力いっぱい僕の顔を拭くと痛いからだと思う…」
「あなた…痛いの?」
「うん…超痛い…」
「紅茶がまだ滴ってるわ…」
「だから…痛いんだけど…」
レイはカヲルを無視して今度は顔の反対側をごわごわのハンカチで拭き始めた。カヲルの顔はにらめっこの顔以上に面白く変化する。
「おやおや…ちょっと見ない間に仲のお宜しい事で…ラブラブじゃーん」
アスカは悪戯っぽく笑うとテーブルに頬杖をついて二人のやり取りを見詰めていた。
「そ、そうかな…そうは見えないけど…」
カヲルは手で静かにレイに抵抗していたが全てレイに振り払われる。シンジの目から見て両頬を擦られているカヲルは本気で嫌がっている様に見えた。
「そうだ!ねえ…あのさ…シ、シンジ…」
「な、何?」
「ゲームしない?」
「ゲームって…べ、別にいいけど…」
「ホント?」
アスカは勢いよく席を立つとキッチンを抜けてリビングに走って行った。シンジもおずおずとその後についていく。アスカは50型の薄型TVの下に置かれている背の低いオーディオラックをごそごそと漁っていたがゲーム機本体と数枚のソフトが入った木箱を取り出す。
「昨日見つけたのよ。これ!エルブス(die Erbse /独語 豆)みたいでかわいいでしょ?」
「エルブス…」
「何かとっても面白そうだったんだけど…やり方とか…よく分かんないしさ…」
一緒によくやってたゲームなのに(Ep#01_2)…やっぱり…加持さんが言っていた昔の事だけじゃなくて…最近の事でも記憶が一部無いのか…だから…僕の事がよく分からなくなっているって事なのか…だから…許されているだけで記憶が戻れば…またケンカしちゃうのかな…僕…今のアスカじゃないとダメなんじゃないのかって思ってる…自分に都合がいいだけの今のアスカじゃないと…でもそれは本当のアスカじゃない…僕の言った事が今のアスカの全てになっていくなら…僕は…自分のことだけを考えちゃダメなんじゃないのか…
不意にアスカの白い手がシンジの鼻先で振られてシンジはハッとする。
「もっしもーし?何考えてんの?怖い顔しちゃってさあ…」
「あ…い、いや…何でもないんだ…じゃ、じゃあセットするよ」
シンジはアスカから木箱を受け取るとオーディオラックの前に座った。その隣にほとんど密着するほどの距離でアスカが座ってきた。シンジは思わず驚いてアスカの方を見る。
「な、何よ…」
「い、いや・・・別に…」
僕は最低だ…嘘をついてる…人の不幸に付け込むってこういう事を言うんじゃないのか…でも…今を大切にしたい…折角…仲良くなれたのに…そんな事言えるはずが無いじゃないか…僕はバカで…情けなくて…何もしてあげられない人なんだって…そんなの…自分からハッキリ言う人なんているわけ無いよ…絶対に!そうだよ!僕だけじゃない筈だよ!別にいいじゃないか…今さえよければ…
「あれえ?!」
アスカの声に驚いたシンジは思わず配線する手を止める。
「ど、どうしたの?」
「TVのリモコンが無いわ…」
リモコンくらい…シンジがそう思って胸をなでおろしかけた瞬間、アスカはすっと立ち上がるとキッチンにズカズカと向かって行く。
「ちょっとお!ミサト!」
「あ、アスカ…別にリモコンが無くたって…遊べるの…に」
急に名前を呼ばれたミサトは椅子の上で身体をビクッとさせるとリビングからキッチンに入ってくるアスカの方を慌てて見る。ミサトはミサトで何か考え事をしていたらしい。
「な、何よ?あんた…いきなり大声なんか出しちゃってさあ…」
「そんなことよりTVのリモコンは?どこにやったのよ?ゲームできないじゃん!」
「え?り、リモコン?!」
「そうよ!さっき操作してた!」
「あ…そ、そういやそうね!ははは!やっベー!どこ行っちゃったのかなあ?あれ?」
ミサトは椅子から立ち上がるとわざとらしく食卓の上に無造作に置かれている宅配ピザの箱を持ち上げ始めた。本人もそんなところにあるとは全く期待していないにも拘らずその場を取り繕う様なミサトの行動を見てアスカはむしろ心配そうな眼差しを自分たちの保護者に向けていた。
やっぱりミサトの様子がどこかおかしい…何かあったのかしら…
アスカの視線に気が付いたミサトは再び作ったような笑いを浮かべた。アスカの中で何かが確信に変わる。
「探しついでにあたしは(自分の」部屋に戻るわ」
「ええ!?別に戻らなくたっていいじゃん。そこまでしてゲームがやりたいわけじゃないしさ…」
「でもさあ、やっぱ無いと不便でしょ?」
「そ、そりゃあ…そうだけど…」
「でしょ?あっち探してくるわ!ええっと…リモコン…リモコンはっと…」
ミサトはまるでアスカの視線から逃れるようにしてキッチンを出て行く。
「ちょっと!ミサト!」
カヲルは自分の部屋にビールと冷めたピザを乗せた皿を持って立ち上がるミサトの背中をじっと見詰めていた。
「どうしちゃったのかしら?ミサト…変なの…」
後に残されたアスカが今度は視線を自分に向けているのに気が付いたカヲルはにっこりとアスカに微笑みかける。
「ミサトさんにも色々事情があるみたいだね…アスカ…」
「アイン…アンタは何か見えたの?ミサトのこと…」
カヲルはそれには答えずゆっくりと立ち上がる。
「さあね…どう言っていいのか…僕にもよく分からない…」
カヲルが自分の食器を手に取る。
「さて、片付けようか…どうやらパーティーも終わりみたいだしね…」
それを合図にその場にいた全員が無言のうちに片付け始めた。
夜中の第三東京市にセミの鳴き声だけが響いていた。
芦ノ湖から吹く風がビルの谷間を抜けて流れてくる。満月に近い月が辺りを照らしている。葛城家はすっかり寝静まっていた。
アスカは月明かりを浴びながら一人ベランダで一つまた一つと灯りが落ちていく街並みを眺めていた。右手には缶ビールが握られていた。ミサトの在庫から拝借したものだった。
「何でだろ…折角帰ってきたのに…自分の家って感じがしない…」
振り出しに戻っちゃったからかな…積み重ねても積み重ねても穴の開いたボウルみたいにすり抜けていく…
「いつまでこんな事を繰り返せばいいのか…」
「アスカ?」
アスカがビールをあおった瞬間、後ろからミサトの声が聞こえてきた。驚いたアスカは途端に咳き込み始めた。
「ゲホ!ゲホ!ゲホ!」
「ちょっと、あんた何やってんの?早く息しなきゃ死ぬわよ?」
「わ、分かってるわよ!ぜえ…ぜえ…ぜえ…き、急に話しかけないでよ!ふう…死ぬかと思ったわ…」
アスカはハッとしてミサトの顔を見た。
ミサトは何も言わずアスカの右手に握られていた缶を引っ手繰る様にして手に取ると一気にそれを飲み干した。空になった缶を右手だけで握り潰すとベランダの片隅に向かって放り投げる。
カランカランカラン…
コンクリートの上で潰れたアルミ缶が乾いた音を立てた。アスカはその音にわずかに肩をビクつかせる。
「ごめん…」
二人しかいないベランダにアスカの沈んだ声が響いた。ミサトはじろっとアスカの方を見たがそれには何も答えずベランダの欄干に肘を乗せてビルとビルの間からわずかに見える芦ノ湖を見詰め始めた。
奇妙な沈黙が少し続いた後、ミサトが遠くを走る車を目で追いながら言う。
「たとえここがドイツだったとしても飲酒は16歳からじゃなかったっけか、ね…」
アスカは俯いた。
「久し振りに一緒に家にいるってのに説教するつもりはないけどさ…あんた…旨いと思って飲んでないでしょ…それ…」
「うん…」
ミサトは自分の隣でうな垂れて立っているアスカの方を見た。
「じゃあそれはビールに対して失礼だよ。あたしはずぼらで酒しか楽しみの無い生活破綻者だけどさあ…少なくとも不味いと思いながら酒を飲んだ事はただの一度としてない…酒の味が分からないなら飲む意味も無い…不味いならあんたにはまだ早いんだよ…まあ…あたしが言いたい事は…そういうこった…」
「ごめん…」
「あたしに謝っても仕方がないよ…謝るならビールに謝んな…」
「ビールさん…ごめんなさい…」
アスカの言い回しがおかしかったのか、ミサトはわずかに口元を綻ばせた。
「ほう…不良の癖に素直じゃん。じゃあついでにもう一回…今度は自分に謝りなさい…自分をいじめて悪かったってね…」
「ごめんなさい…」
「よし」
再びベランダに静寂が戻った。暫く二人は並んで夜景を見ていた。最初は殴られると警戒していたアスカだったが恐る恐るミサトとの距離を詰める。
「昔は12月が嫌いでさあ…」
不意にミサトの声がベランダに響いた。
「ど、どうして?」
「あたしもあんたと同じで誕生日が12月じゃん?クリスマスと同じ月でしょ?だからあたしは子供の時から誕生日とクリスマスを一緒にされてたんだよ…クリスマスの日にさ…お誕生日おめでとう!アンドメリークリスマス!てね…酷いときは盆も正月もみーんな一緒だった…」
「まさかあ。いくらなんでもハッピーバースデー&メリークリスマス&アハッピーニューイヤーってことは幾らなんでも…」
「それがさあ…マジなんだよね…それにあたしは一人っ子だったからね…あたしの誕生日が唯一の家族のイベントっつうかさ…」
結局…家族っていうのは名ばかりで…何が家族なんだか…あたしにはよく分からなかった…
「そうなんだ…」
「だから…なんで別の月に生まれなかったんだろうっていつも恨んでた…そんでさ…バカみたいだけど誕生日とクリスマスをきちんと別々に祝ってくれる人のお嫁さんになるってのが昔のあたしの夢でさあ…でも…大人になって恋人が出来てもやっぱ一纏めだったよ…働き始めてからかな?面倒がなくていいかって思うようになったのは…」
「ミサト…」
「何?」
「その…何かあったの?今日…アンタ変だったから…」
「そうね…何もないって言えば嘘になるわね…でも…今は言えない…それじゃ駄目?」
「プライベートな事なら仕方がないけど…」
それって多分…アタシにも関係がある事の様な気がする…アインはミサトから何かを感じていたみたいだし…
「ねえ…アスカ…あんたに相談があるんだけどさ…いいかな?」
「え?相談?」
「うん…こんな事を言うのは…正直慣れてないから…照れ臭い…いや違うな…何なんだろうな」
「何よ?モジモジしてるの?アンタのキャラじゃないわよ?」
「あのさ…あんたさえよければ…あたしのさあ…妹にならない?」
「い、いも…」
アスカの顔が引きつっていた。
「それって…まさか…アンタにそういう趣味があったなんて…ショックだわ…まさかそれが言いたくて様子が変だったの?胸とか触ってくるし…」
「おい…話が凄い方向に行ってない?それ…バカじゃないの?あんた!ウチ(葛城家)の子にならないかって言ってんだよ!そうすればあんたは国籍とかさ、戸籍とかの心配しなくて済むでしょ?何があってもさ!」
「か、葛城家の子…」
アタシとミサト…いや大尉とは戦友だから?付き合いが長いから?…そんなことない…10年以上も上司と部下という関係は国連軍では珍しい事じゃない…大尉は…あの日を境にまるで友達のようにアタシに接するようになった…アタシはそれに甘えて今日まで生きてきた…でも…アタシの心の中ではやっぱり大尉は大尉だった…なのに…どうしてアタシは大尉をミサトと呼べるの?どうして大尉は…
「そうだよ!まあ…その…葛城アスカってのはちょっち語呂わりいけどさ…それであんたは地に足をつけてだねえ…」
「どうして…どうしてそんな事を急に…」
アスカはミサトの言葉をさえぎる様に呟いていた。
「何でって…そう言われると困るけどさ…」
どうして…そんなに優しくしてくれるんですか…アタシ…このまま甘えて生きてもいいんですか…
「まあ…強いて理由を挙げれば…家族…だからかな…確かに血は繋がってないけど…逆に血が繋がっていても相克しあう家族の例もある…あたしも年取ったのかな…今日は特に寂しくてね…だからって言って今日思いついた話じゃないんだ…ずっと考えていたことだったしね…それに…」
マンションのすぐ下を一台のハイブリッドカーが音も無く通り過ぎていった。
「下なら妹がいいって思ってた…まあ…唐突過ぎるよね…ダメ…かな…?」
アスカは俯いたままだった。
ミサト…
「条件があるわ…」
「何?」
ミサトは顔を上げる。そしてアスカと対するように正面に向き直って不安そうな顔を浮かべた。アスカは目を伏せたままだった。
「そんな…大した条件じゃないんだけど…前から気になっていた事がある…」
「そ、それは?」
「リビングのカーペット替えて…」
「か、カーペットを?」
ミサトは驚いた様な顔をしていた。
「うん…それがアタシからの条件…って…ちょっと…何悩んでるわけ!?悩むとこじゃないじゃん!感動するとこじゃないの!?」
「うーん…ぶっちゃけ金ないんだよね…今…ははは…」
ミサトは茶化す様に笑う。
サイテー!言うんじゃ無かった!
アスカは腹立ち紛れにジロッとミサトの顔を見る。そんなに背格好の変わらない自分の正面に立っている保護者の顔を見てハッとした。ミサトは泣いていた。笑いながら大粒の涙をぼろぼろと零していた。
「今…お金ないけどさ…でも…その約束を果たせば…(養子縁組に)同意するんだね?あんた…」
ミサトがアスカの両肩をガシッと掴む。大人の涙に気圧されたアスカは思わず視線を逸らした。
「べ、別に…履行しなくたって…いいけど…」
「それであんたはOKなんだね!」
「う…うん…」
ミサトはアスカをそのまま抱きしめていた。それはあまりにも力強く痛いほどだった。しかし、暖かかった。
「よっしゃ!交渉成立だ!きっとだよ!あんた!嘘つきは嫌いだかんね…」
「み、ミサ…ト…くるし…」
ミサトの腕の中でアスカはただ抱きしめられたまま宙を見ていた。
あんたにあたしの全てを譲る…これで…思い残す事は…ない…ごめんね…アスカ…あたしは…やっぱアイツがいないとダメなんだ…
「ミサト…」
アスカは喉元まで出掛かった言葉を飲み込んでいた。三日月と満天の星だけが二人の約束を聞いていた。
こうして約束を交わした二人だったがミサトのマンションのカーペットが替わる事はなかった…それは後の話ということになる…
Ep#08_(32) 完 / つづく
(改定履歴)
2012.11.28 / 誤字修正
2012.11.28 / 誤字修正
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