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「男尊女卑」的な思想が日本に特徴的であると、日本の男女社会参画の一部関係者の間で実しやかに語られる事があるがそれは大きな誤りであると言わなければならない。歴史的に見て「男性上位」の思想は紀元前の段階で広く世界に分布しており、レディーファーストという特異な風習を拠り所として西洋が「女性を大切に取り扱った」と考えるのは浅はかと言うしかない(レディーファーストには実を女性に与えず祭り上げておく、という側面もあったことは知っておいていい)。
時の宗教はこうした社会情勢に非常に敏感であり過ぎ、宗教指導者の理想(悟り)だけでその教義が説かれて後世において編纂されたと考えるのは極めて早計である。キリスト教もその例外ではなく、ローマ帝国皇帝と深い結びつきを経てローマ法王が強い権勢を握ったプロセスを考えれば、必ずしも「人間本位」という考えが優先されなかった事を雄弁に物語るであろう。
人間の始祖を聖アダムとエバに置く聖書によれば、原罪の元を作った「女」エバはキリスト世界において未だにアダムとは同列に置かれておらず、しばしばこれを根拠として「女性の社会進出」は欧米で疎まれていた。それは驚くなかれ20世紀初頭まで続いていたのである。翻って平安朝期の日本では女性が社会で占めた地位が極めて高かった事は意外と知られていない(今日のような男尊女卑は江戸時代に確立したといわれている)。
旧約聖書においてエバ以前のアダムの妻の存在が示唆され、教会の公文書ではない私的文献に「リリス」の名が現れる。アダムの第一の妻として、また一個の自立した女性として凛と描かれる「レディーリリス」はルネッサンス期に一部の画家のモチーフとなっていた。もし、リリスがアダムの妻として聖書に記されていたとすればどうだろう…歴史に「もしも」は禁物だが聖書が与えた後世への影響を考えれば大きく人類の歴史が変わっていた事は疑いようがない。
「リリス」の存在はこうして今も我々に多くのことを問いかけるのである。
人間(リリン)とは一体…何であるのか…と…
価値観、いや、人間そのものに対しても・・・偏りや差異を与えたのは神でも自然でもない・・・我々自身なのである。そこに「人類補完」の本質があると作者は考えている。私はフェミニストではないが「リリス」のエピソードに触れるたびに思うことがある。リリスはもしかしたらヴァチカン、あるいは時の為政者らによって恣意的に黙殺されてきたのではないかと。
その度に私は人間を区別することが如何にナンセンスであるかと思い知らされるのである。全ての人類と生命(動植物)は等しく地球の住人である。だがそれだけの事である。そこに意図的に迫害や過保護があってはならない、と私は言いたい。本質は「生命の尊厳の同一視」であってそれ以上でもそれ以下でもないのである。あくまで私の個人的意見なのだが。