新世紀エヴァンゲリオンの二次創作物、小説「Ihr Identität」を掲載するサイトです。初めての方は「このサイトについて」をご参照下さい。小説をご覧になりたい方はカテゴリーからEpisode#を選んで下さい。この物語はフィクションであり登場する人名、地名、団体名等は特に断りが無い限り全て架空のものです。尚、本ホームページに使用した「新世紀エヴァンゲリオン」の画像は(株)ガイナックスのガイドラインに沿って掲載しています。配布や転載は禁止されています。
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【R15指定(一応)】
第四部 Crime and Punishment 罪と罰 (前篇)
(あらすじ)
傷つき…疲れ果てた二人が…逃れ逃れ辿り着いた場所…
そこで葛藤しながらも互いを受け入れる二人を待ち受ける運命とは何か…
シンジの胸は温かかった…
このまま永遠に眠ってしまってもいいとさえ…一瞬思ったくらい…安らいだ…こんな気持ちは生まれて初めてかもしれない…
仄(ほの)かにL.C.L.の匂いがする…血のような赤い薫り…それがアタシを再び現実の世界に引き戻した…
そう…アタシ達は常に誰かから見られている…本部施設の廊下には10メーター間隔で監視カメラが取り付けられている…病棟や病室もその例外ではない…外に出ればSG(Security Guardの略。ネルフ保安部第3課。Ep#03_7他参照)に尾行され…休まる時がない…
今まで逃げ出すのは卑怯だと思っていた…全て真正面からぶつかって行けば道は開かれると信じていた…目の前に次々と現れる壁を蹴破って行けばいい…そう自分に言い聞かせてきた…
でも…先は見えないばかりか…足掻けば足掻くほど自分が傷ついていくだけ…もう疲れてきた…諦めることが出来ればどんなに楽だろう…
何もかもが嫌になった…もう何も考えたくなかった…それじゃいけないんだろう…バカになりたかった…
反射的にアタシはこの子の手を引いてその場を逃げ出した…いけない事をしているという自覚がそうさせたのか…自分自身に向けられた嫌悪からか…理由は分からない…いや、そんなものは今更どうでもいい…
とにかく今は逃げ出したかったんだ…全てをかなぐり捨てて…何もない素のままの自分を求めて…
人の目や現実…そして自分からさえも逃げた…
そう…アタシ達は…全てから逃げた…
何もかも振り払って…
音のない異様な病棟の中を当てもなく歩き出したアタシたち…何を求めているのか…何から逃れようとしているのか…分からない…あるのは次々に覆いかぶさってくる不安…そして恐怖…楽園を追われた最初の人間達はどんな気持ちで彷徨(さまよ)ったのだろう…
ひらがなとカタカナはマスターした筈なのに目に飛び込んでくる文字が全然頭に入ってこない…もう…知性と呼ぶべきものはアタシには残っていない…ふと目に付いたアルファベット…Linen roomと書かれた部屋を見つけたアタシはこの子の手を引いてドアノブに手をかけた…
ロックされていなかった…一般の病院に比べて極端に利用者が少ない地底の病棟はX線や高電圧機器を取り扱う場所以外は殆ど鍵がかかっていない…
小さいガラス窓から差し込んでくる蒼白い月明かりだけが倉庫みたいな部屋を照らしていた…シーツや毛布類が堆(うずたか)く積まれた棚が立ち並び…大きな洗濯機や乾燥機、そして大型のプレス機がまるでちょっとした工場みたいに整然と置かれていた…
洗濯糊と漂白剤の僅かな遊離塩素の匂いが漂う…逃れ逃れて辿り着いた…逃亡の果てが…この場所だった…
エアコンの替わりに換気扇が回る肌寒い(※地底のジオフロントは昼夜の寒暖の差が激しかった)空気が横たわる殺風景な部屋なのに…何故かアタシはホッとしていた…
肌寒い蒼白部屋の中でお互いにさっきから一言も発していない…
アタシは自分の胸の高さくらいの棚に置かれていたシーツの一塊を押して床に落とした…鈍い音がする…
「ねえ…アスカ…何してるの…?」
初めてシンジが口を開いた…
アタシは無言のまま足で床の上に落ちた重いシーツの束を蹴って広げていった…真新しいシーツが雲みたいに広がる…新しいコットンの匂いが心地よかった…
アタシはキョトンとしているシンジを振り返っていたずらっぽく笑うと今度は枕の棚に走っていった…
「ね、ねえ!待ってよ!どうするのさ…こんなことして…看護婦さんに怒ら…ぶっ!」
ばふっ
ぶつぶつと細かいことを神経質な顔して言うシンジの顔目掛けて枕を投げ付けた…
「な、なにするんだよ!」
ハトが豆鉄砲を食らったような顔しちゃって…おかしさが込み上げてくる…床に落ちた枕をシンジがアタシに投げ返してきた…ヒョイッと事も無くかわす…
「ふふふ…アハハハ!そんなヘナチョコ玉に当たるわけないじゃない!」
アタシは手当たり次第にその辺りにあった枕を投げた…枕は面白いくらいにシンジに命中する…
「や、やめ…アスカ!怒るぞ!こんなことして!見つかったらどうすんだよ!」
シンジが枕を両脇に抱えて追いかけてくる…
「遅い!遅い!そんなんじゃ捕まらないわよ!」
物音を立てまいとするシンジのぎこちない動きは格好の的だった…今度は毛布を投げつける…なんでこんなに楽しいんだろう…
「アスカ!止めろって!」
「ベーだ!ここまでおいで!ハハハ!」
アタシは笑った…お腹が痛くなるほど笑った…心の底から…憂いもなく…
「ちょっと…何なんだよ…急に…」
シンジが困惑しきった様な顔でアタシを追いかけてくる…大きな棚の間をアタシ達はまるで鬼ごっこのように何度も駆け回った…その度にアタシは棚に置かれていた寝具を引っ張り出した…初めはそれらを几帳面に一箇所にまとめようとしていたシンジだったけど、アタシがそれをまた蹴って散らかすというパターンが2、3回続くとさすがに無駄と悟ったらしい…ついに諦めてアタシを専心に追いかけ始めた…
「アンタってホントにバカね!気づくの遅すぎよ!ふふふ…ハハハ」
「うるさいな…いい加減にしろよ!アスカ!こんなことして何が楽しいんだよ!」
シンジの少し苛立ったような声…記憶に残っていないのに何処か懐かしい響きがある…いつの間にかアタシたちが走った後から冷たく固い床が消えていった…ふかふかで白い…そう…真っ白な雲の上をふざけながらアタシ達は走り回る…クピード(キューピッド)がいるとしたらこんな感じで雲の上を飛び跳ねて戯れるのかしら…
ギリシャ神話(※1)に出てくる情愛を司る神クピードは美の女神アプロディーテの息子…プシュケーの美しさに嫉妬したアプロディーテが計略に陥れようとしてクピードを遣わせたところ、あろう事か二人は逆に恋仲になってしまった…でも…人間であるプシュケーは神であるクピードの正体を知ることを許されず…二人は互いの素性も分からぬまま逢瀬(おうせ)を繰り返していた…ある日、プシュケーは遂にその禁を破ってクピードの正体を暴いてしまい、二人の甘美な生活は終わりを告げてしまった…その後、苦難の道を辿りながらもプシュケーはクピードのことを慕い続けて人間の身でありながらハデスの統べる冥界にまで赴いた…その一途さに根負けした姑のアプロディーテもついに二人の仲を認めてプシュケーは天界に上ってクピードと共に幸せな日々を送ったという…
プシュケーはギリシャ語で「心」の意味…心と情(性)愛は切り離せないという寓話性に富んだ男女に対する戒め…
息ができない…狂おしいほど…あまりの苦しさにアタシは走れなくなって立ち止まってしまった…そして…ふと目に違和感を覚えてアタシは右手を目に当てる…
右の人差し指が濡れていた…
「これ…まさか…」
「アスカ…いい加減にしろよ!捕まえたぞ!」
「うわ!きゃあ!」
後から追いついて来たシンジがアタシに後ろから飛びついてきた…不意を疲れたアタシはそのまま白い雲の上に押し倒された…
「ハア…ハア…ハア…やっと…ハア…ハア…捕まえ…た…」
部屋に激しい息遣いの音が響いている…
「ハア…ハア…もう…部屋がめちゃくちゃじゃないか…どうするんだよ…これ…」
「…」
アタシは両肩を押さえつけられていた…急に左の鎖骨から脇腹辺りにかけて冷たい空気が触れる…お互いの服が大きく開いて顕わになっていた…シンジの心臓がある部分が激しく脈打っているのが手に取る様に分かる…
でも…そんなことよりも…アタシも…そして多分シンジも…全く別なものに目を奪われていた…
自分の心を野に解き放ち…情愛に身を焦がすことで人の理性(知恵)が忘却の彼方に追いやられてしまう例はたくさんある…心から染み出してくる感情…その激情を…究極にはアタシたちは抑える術を知らない…そして心から染み出してくる岩清水のような衝動…それが…
「アスカ……泣いてるの…?」
アタシは…その時、泣いていた……
シンジを下から見上げるアタシの瞳から次から次に涙が溢れては流れていった…どんなに拭っても拭ってもそれは恥かしいほど止め処なく流れていた…
「どうして…どうして涙が……」
すると…今度はアタシの顔の上に涙が落ちてきた…シンジも泣いていた…
あの子がいなくなったのに涙が出なかったアタシたち…まるで気が触れたかの様な戯れの果てにアタシ達はどうして涙を流すのだろう…今更…アタシ達は冷え切った体を重ねて一緒に泣いた…バカよね…ホント…情けないほど…
もう…全ての思考は押し流されていた…
慰め合い、傷を舐め合うようにアタシ達は強く互いの身体を抱きしめ…唇を重ね…涙で濡れた頬を寄せ合い…また唇を重ねた…悲しみの瘴気が渦巻く渕から逃れようとするみたいにこみ上げてくる激情に流されるまま…
唇から舌…また唇へ…それが何を意味するかも分からぬまま…力任せに相手の身体を抱きしめて…唇を合わせる…ただそれを繰り返す…
何をするにもアタシ達はあまりに幼すぎた…でもそれでも構わなかった…現在(いま)…この瞬間が満たされさえすれば…それでよかったから…
アタシがシンジの首に腕を回した途端、がちがちに力が入っていたシンジの手がアタシの胸に触れた…不思議と恥かしくはなかった… 男の子に触られる自分の姿を想像したことなんてなかった…温もりが掌から伝わってくる…触られても特に気持ちがいい訳でもなかったが安らいでいく気がした…
浴衣みたいな服は殆どはだけてしまっていてお互いに下着だけの状態に近かった…それでもアタシたちは裸になれなかった…それはギリギリの理性がそうさせるのか…それとも最後まで残った心の壁なのか…いや…単に自分を相手に曝け出す意味がよく分からなかっただけかもしれない…
遠い世界の月明かりが半裸のアタシ達の身体を冷たく染める…アタシは自分に覆いかぶさっているシンジのぬくもりを全身で感じていた…アタシは…もうそれだけで満足だった…
抱きしめ合い…唇を重ね…怯えたように舌を絡ませる…時折、アタシに触れてくるこの子の手はどこか危なげでたどたどしかったけど…掌に胸が包まれるたびに満たされた…
だからいきなりこの子の手が太腿の付け根から下着の中に入ってきた時、アタシは思わず飛び上がりそうになった…上体を起こしかけたアタシに気が付いてすぐに手を引っ込めた…どこに触られたのか…正確には分からないけど…秘密を知られるのはあまりにも恥かしすぎて…そして怖かった…
「ご…ごめ……」
耳元で小さい聞こえてくる…
アタシはシンジが下着の中に手を入れてきたことにも驚いたし…固くなった男の子のものを自分に押し付けてくるように身体を動かしていることに少なからず衝撃を覚えていた…
この子が体を動かすたびにアタシの太腿の内側に当る…いまだかつて見たことも触れたこともない…得体の知れないそれ…薄いトランクスの布地から液体が染み出していて…押し当てられる度(たび)にアタシに付着して冷たい感触が残る…別に汚いとは思わない…
ただ…この先どういう顛末になるのか、それは女の子の方が男の子よりもよく分かっている…まして相手がこの子なら…なお更かもしれない…女は血を流し始めた時、自分に与えられたもの(宿命)が何だったのか…それを本能レベルで正しく悟るように出来ているらしい…男には無い女の通過儀礼…
面倒くさくて…頭で分かっていても実感なんて涌かない…子供なんて要らないって思うのは…自分自身のことを子供だと思っているからだ…この世に氾濫するその類の知識はどれもこれも嘘ばかり…
この子の一部が自分に触れてくるたびにアタシ緊張した…それは嫌悪とも恐怖とも違う…怖いという形容は言葉として同じだけど恐怖ではない…全く異質なもの…
多分…それは…自分はまだ子供と言う薄っぺらい背徳に対する言い訳と自分はもう大人なんだという中身のない虚勢に対する空しさ…世の中の大人が想像を巡らせるような甘美な好奇心とも恍惚の追求ともまるで無縁な…
罪と罰のジレンマ…
軽重(けいちょう)の区別ではなく…何かに追い詰められ…あるいは自分の非力さを実感する時…大人になり切れない人間はひたすら傷つき、悪くすれば絶望する…
現在(いま)という冷たく重たい無慈悲な現実が刃物となって容赦なく身を切り刻んでいく…丸みを帯びた鈍ら刀(なかくらがたな)は余計に痛む…ズィーベンステルネで命を奪われたあの子達のように…目の前の現実はいつも即効ではなく漸次的(ぜんじてき)に生きる気力を奪っていく…
そんな辛さに晒されるとき…未熟な人間達は何によって救われるのだろう…目を背けるしかないんじゃないのかしら…
「今さえよければいい…」
そんな短絡的なことを考えるな、と大人はアタシ達に言う…加持さんやミサトにそれで何度怒られ、諭(さと)されたことだろう…言われなくても分かってる…そんなこと…
でも…現実は何なの…目の前にあるものは…
価値なんてまるで分からない過去…逃げなきゃ自分が壊れてしまいそうになる現実(いま)と…そして、先の見えない未来だけ…
確かなものなんて何もない…そんなアタシたちが信じられるものはすごく限られる…握り締めた手…優しい瞳…そして温もり…
それは…いけないことなの…?
アタシの右手がトランクスにかかった時…僅かにシンジの体がビクつくのが分かった…緊張してガチガチに凝り固まっている体が余計固くなった感じだった…体をアタシから離して脱がされるのに抵抗しようとするシンジの顔を左手で強引に自分の方に向けさせる…
「見ない方がいいわ…どうせ…緊張しちゃうでしょ?」
「え…?それってどういう…」
男というか…特にこの子の真理はよく分からない…
「その…したいんじゃないの…?」
体も心も一つになりたいんじゃないの…?
「え…えっと…ぼ、僕は…」
アタシのこと…好き…?
「えっと…優しくっていうか…」
まあ…ギリギリ及第点…こういう時は嘘でも好きって言っておくものよ…
「ゆっくりすれば…大丈夫…多分…」
「う…うん…で、でも…うん…」
折り重なったまま自分も下着を脱ぎ去り…導いた…怖いと思う気持ちが…アタシとこの子の間でかなり違うことにこの時気がついた…
じわじわと下腹辺りを圧迫される感覚…体と体が密接に触れ合った時…幻想の全てが終わったことを知る…緊張のあまり何かを思う暇(いとま)さえなかったが想像していたよりもずっとスムースだったかもしれない… 僅かに引きつる感じはあるものの痛い訳でもなかったし…また…夢心地という訳でもなかった…ただ…
お互いの不足を補い合い…満たす…そんな得体の知れない表現しがたい心境…安心感の様なもの…?多分こう言った方がしっくりくるのかもしれない…
長かったのか、短かったのか…それもよく分からない…スローテンポだったこの子が急に身体を硬直させる…
「何…?どうしたの…?」
「あ、あの!えっと……その…ごめん…」
次の瞬間、自分の中にあるものが僅かに脈動しているのが分かった…何かが出ていたとしてもアタシにはそんな事は分からない…当たり前だけど…
「ちょっと…その…ご、ごめん…」
「…」
まるで実感が涌かない…今…何が起こったのか…それに…何で自分が謝っているのか…この子にもその意味は分かってないと思う…
「終わったの…?」
「何か…その…う、うん…多分…」
自分に覆いかぶさったまま動かないシンジとそれを受け入れたままの自分…それ以外に何もない肌寒い部屋の中で今はお互いを暖めあって眠りたかった…
これが……アタシが…
思い出せば恥かしさと後悔が入り混じった複雑な感情が込み上げてくる…
あの時…加持さんはアタシを「お姫様」と呼んで全く相手にしなかった…その時に気がつくべきだったのかもしれない…アタシは加持さんを尊敬して憧れてもいた…でも加持さんはアタシを自分の妹か…或いは娘くらいに思っていたのかもしれない…だから…アタシを優しく包み込んで抱きしめてくれたんだ…その抱擁は温かかったけど決して力強くはなかった…
スコッチとタバコの匂い…そして…僅かな火薬の薫り…アタシが恋焦がれたRitterは…虚構と真実の狭間を行き交うスパイ…それは愛と呼べるようなものではない…幼子が無意識の内に追い求める父親の幻影…
アタシに触れようともしないのにいつも守ってくれる加持さんをアタシは卑怯だと思っていた…そう…大人はみんな汚い…大人は狡猾(こうかつ)で汚い…自分達はそうやって生きている癖にアタシ達には出来もしない理想を説く…そう思った時期もあった…
でも…やっと分かった…
大人になるということ…いえ、自分で自分の責任を取るということは…自分の手を汚すことを厭わない覚悟をすることなんだ…罪を重ねて生きていくしかないアタシ達、人間はそうやって親の庇護から旅立っていくんだ…
その覚悟…それがアタシの感じた…怖い…と思った気持ちの正体…
後悔はしていない…アタシは今…満たされているから…心も…体も…
遠慮がちにまたゆっくりとシンジが動き始めた…引っかかる様な感じはもうしない…滑らかに動いている…みたい…
冷え切っていた体がいつの間にか熱くなっている…汗ばむほどに…アタシ達は折り重なったまま単調な動作を繰り返した…何度も…何度も…いつ果てるとも知らず…それは繰り返される…ただ…疲れ果て…力尽きて眠りに付くまで…繰り返し…繰り返し…
過去も未来も必要ないと思えるようになるまで…この瞬間以外…信じられるものは無いんだから…
何も保障されない明日よりも…今に溺れて眠りたいと思うのは不当とは思わない…そう…この瞬間がアタシ達にとっての永遠ならば…
明日なんて要らない…このまま終わってしまえばいいんだ…何もかも…
いつの間にか…幾重にも折り重なった白いシーツと無秩序に被った毛布の束に包まれてアタシ達は眠っていた…
部屋が黄金色に染まっている…
「……朝……」
そうよね…明日なんて要らない…そう言ったところで結局、誰の上にもいつもと変わらない朝が来る…生きている限り…
でも…
光輝く自分の腕と自分の隣で小さな寝息を立てているシンジの背中を見ながら思っていた…アタシは今日…今までとは全く違う朝を迎えていると…
それがいいことなのか…それとも…悪いことなのか…アタシにも分からない…分かるわけがない…
幼さ…未熟さを言い訳に使う心算は無い…アタシ達は瞬間の激情を感じる事は出来たとしても…そこに運命を感じることも、まして…それを見出すことも出来ない…運命…単なる偶然と選択の積み重ねでしかないそれを大人は…人生…あるいは“お前達の将来”とこれ見よがしに言う…
迷い続けている自分が根無し草のようで堪らなくイヤだったけど…今は違う…
シンプルに…アタシは運命に流されよう…流されながら…自分を見定めることにしよう…そう…自分の命の価値を…
シンジ…アタシはもっと早く気がつくべきだった…
アンタと出会えたことでアタシはその価値を得ていたんだ…
アタシは毛布をそっと脱ぐと上体を起こす…あんまり…自分の身体を見たくなかった…自分が座っているシーツを掴んで汚れというか…汗を拭うように自分を拭いた…
結局…この子…どんだけ…
自分が敷いているシーツの湿り具合で判断するしかなかったけど…あんまり…現実的なことは考えたくはなかった…それを考えれば考えるほど…女という生き物は損した気持ちになる習性を持つらしいから…
アタシは立ち上がるとすっかりシワシワになった病院服を一旦脱いで着直した…その気配に気づいたらしい…
「んん…あ、あれ…起きてたんだ…」
「アタシもさっき起きたばっかよ…そんなことより…早くここからずらかるわよ」
「え…えっ…ず、ずらかるって…」
まだ寝ぼけてるらしい…
「さっさ起きなさいよ。早くしないと職員の人たちが出勤してくるじゃん。医療部の人たちに見つかるとヤバイわよ」
アスカはシンジを見下ろしながら言うと白い葉を見せて笑う。リネン室の中は寝具類が散乱して悲惨な状態だった。
「そ、そうだね…急がなきゃ…」
「アタシ…もう行くわよ…そりゃ!」
アスカは勢いよく二人がさっきまで眠っていたシーツを引っ手繰る。
「う、うわ!!い、いた!」
鈍い音と共にシンジは床に投げ出されて尻餅をつく。
「早くしなさいよ。ホント、グズなんだから…それから…」
アスカはプイっとシンジから目を背けた。
「服…着直してよ…」
「え…?う、うわ…恥かしい…」
シンジは慌ててはだけた服の前を掻き合せるとシーツの山を漁り始めた。アスカは両手に抱えたシーツの塊を大型のランドリーの中に荒々しく放り込んだ。
「これでとりあえずよしっと…証拠隠滅ね」
トランクスを慌しく穿いたシンジが目を擦りながらようやく立ち上がる。
「こんなので証拠隠滅って…部屋…めちゃくちゃじゃないか…」
「アンタばかぁ…?だからずらかるんでしょ?汚れ物さえ始末すればそれでいいのよ…後は…」
罪を重ねながら生きていく人間…罪が必然なら…相応の罰を受けるのも必然…その当然の罰を受け入れようとせず…罪だけ重ねるというのは都合がよすぎる…
罰を甘んじて受ける覚悟がアスカ…あなたにはあるの?
「行くわよ…」
「う、うん…」
罪と罰…言い換えるならばそれは自由と責任…人間は生まれながらに自由…それは同時に罪を重ねて生きていくことを肯定することでもある…その成れの果てにある罰…
「ねえ…シンジ…」
リネン室のドアノブに手をかけたアスカがシンジを振り返る。アスカの顔は真剣そのものだった。青い瞳はじっと真っ直ぐにシンジの黒い円らな瞳の奥を見据えていた。
「な、なに?どうしたの?」
「昨日のこと…」
「き、昨日!え、えっと…」
アスカの言葉を聞いたシンジは耳まで真っ赤にして慌てふためく。
「もし…アンタが忘れたいなら…なかった事にしてあげてもいいわよ…」
「な、無かった事って…」
「どう…?」
「どうって…言われても…急に…」
「そうね…」
アタシはその全てをこの身に受ける覚悟がある…
「それだけよ…」
勢いよくドアを開け放つとアスカは一人でズカズカと廊下に出て行く。シンジも一歩遅れてその後に従った。病棟には太陽の光が差し込んでいた。
病室に戻ったアスカは暫くそのまままどろんでいた。
突然、病室のドアが荒々しく開かれる音がしてアスカはふと我に戻る。病室の入り口にはダークのパンツスーツを身にまとった女性の二人組が立っていた。
「セカンドチルドレン、惣流・アスカ・ラングレー特務一尉ですね?」
「はあ…そうですけど…あなた達は?」
「12月1日付けで発足した諜報2課(※司令長官室の下部組織として諜報課は一つしかなく、エージェントは全て男性で構成されていた。Ep#08_参照)の者です。アスカは退院許可が下りました。直ちに作戦部に出頭して現役復帰して下さい」
言葉こそ丁寧だったが有無を言わせない厳しい雰囲気があることを敏感に察知していた。
アスカはベッドから起き上がるとゆっくりした動作で床に降り立つ。女性諜報課員達の鋭い視線が突き刺さっていた。
ありがたい事ね…まだ…生かしておいてくれるらしいけど…それにしても…この絶妙な間合い…万が一に一人が殺(や)られてももう一人が容赦なく味方ごと頭を吹き飛ばすくらいの胆力を感じる…アタシを女だと思って頭から侮っていた男のエージェントとはわけが違う…同性なだけに容赦がないわね…
「分かったわ…一つ質問があるんだけど…」
「何かしら?答えられる事は限られるけどそれでもよければどうぞ」
「今日は何月何日の何時?」
やや拍子抜けした様な雰囲気が女性諜報課員たちの間に広がり互いの顔を見合わせる。入り口を固めていた一人が小さく頷くとアスカに程近い一人が腕時計を見た。
その僅かな動作で開くジャケットの動きにアスカは目を走らせる。
「今日は2015年12月9日…水曜日…今…午前9時半ジャストね…」
「そう…ありがと…」
ブラウスの下に軽量薄型防弾チョッキ…ジャケットに自動小銃と絞殺用の極細ワイヤー…俄仕立ての単なるこけおどしって感じじゃないわ…どうやら女対策じゃなさそうね…諜報2課…ホンモノらしい…
アスカは諜報課員に伴われて病室を出た。相変わらず人気のない廊下だったが歩きながらアスカは気配を悟られない様に両脇を固めるように左右に立っている諜報課員たちに視線を送る。
使徒襲来から二日経ったのか…パイロットの復帰を急ぐということはまだ使徒が活動する可能性を警戒してるってこと…多分…作戦地域にウチ(ネルフ)は調査団を派遣している筈…万が一に備えてって事なんだろうけど…他に理由が…もっとも…司令の憲兵みたいなこいつらに何を聞いても答えそうにない…ミサトか…マコトのどっちかが捕まればいいけど…時間を稼ぐ方法は…
「ちょっと汗かいちゃったからシャワーくらい浴びたいんですけど…少し待ってもらっても…」
「ちっ…何ふざけてんだよ…おめえはよ…優しい顔してりゃあ付け上がりやがって…そんなの自業自得だっつうんだよ!パイロット更衣室に行けば幾らでも浴びれんだろうがよお!」
「ど、どういう意味よ…」
あまりの豹変振りに戸惑うアスカの表情を見た女性諜報課員たちは顔を見合わせると一斉に吹き出して笑い声を上げ始めた。
「ちょっと!な、何がそんなに可笑しいのよ!」
「何がって…ぷっ…気が付かなかったのかよ…めでてえなあ?くっくっく…倉庫みたいなトコでよ…何やってたんだよ…あーはっはっは!」
「おいおい…言うなよ!105!ガキの顔が…くっくっく…真っ赤じゃねえかよ!!」
「な、何ですって…まさか…」
見られてた…
アスカは全身から血の気が引いていくのを感じていた。
う、うそだ…あり得ない…幾らボウッとしてたとはいえ…見られていた気配なんてまるではなかったじゃない…
「そ…そんな…どこまで…」
呆然と呟くアスカの声は二人の高笑いでかき消されていった。
「はっはっはっは!ばーか!!これで分かったろう?ついでだから忠告しておいてやんよ!くれぐれも変な気は起こさないようになあ!!ひっひっひ!あー腹いてえ…」
狙撃手が愛用する特殊UVカット仕様のレイバンから僅かに見える諜報課員達の目に明らかな嘲りがあるのが分かった。病棟に全く人影がないことが唯一の慰めだった。
アスカは腹を抱えて大笑いしている諜報課員たちを鋭く睨みつけた。
「なんだよ!その目はよお!マジうけるんだけど!!はっはっはっは!!」
「それにしてもさあ…最近のガキはホンッとに末恐ろしいのな!恥かしすぎて首吊るってレベルじゃねえぞ!ひっひっひ!」
アスカの体はあまりの屈辱に戦慄(わなな)いていた。それを見て更に笑い声はエスカレートしていく。
こ、こんな…こんな辱めを受けたのは…生まれて初めてだ……ゆ、許せない…殺してやる!
アスカは右側に立っていた諜報課員の鳩尾に鋭く肘鉄を入れると続けざまに右回し蹴りを浴びせた。アスカの蹴りは正確に女性エージェントの右の肩口に振り落とされる。
「ぐはっ!!」
「おっと!そこまでだよ、お嬢ちゃん!頭ジャンクにされてえのか?」
不意打ちの蹴りで体制を崩した相手に馬乗りになっていたアスカだったがすぐに起き上がってきた右側の諜報課員が冷たい銃口をうなじに突きつけていた。
「残念だったねえ…薄いが意外といけるだろ?こいつは…」
やっぱ…防弾チョッキの上からじゃ浅かったか…でも…顔に入れていたらかわされてたろうし…万事休す…ね…
「いってえ…このクソったれがあ!!」
アスカに馬乗りにされていたエージェントがいきなりアスカの腹に拳を突き立ててきた。
「うぐ!!がはっ…」
すばやく起き上がったエージェントは四つん這い状態で腹を押さえていたアスカを今度は下から上に蹴り上げる。
「ゲホ…ゲホ…ゲホ…」
溜まらず廊下に崩れ落ちたアスカを今度は容赦のない蹴りが続けざまに襲ってきた。
「おら!おら!クソガキが!色気づくのは10年早ええんだよ!男に二度と会えないような顔にしてやろうか!ああ!?」
「おい…105…その辺にしときなよ…おい!さっさと立ちな!」
「ちっ!クソが!」
105と呼ばれたエージェントは悶絶するアスカに唾を吐きかけた。
「ふん!あたし達からどうしても逃げたいなら素手は使わないことだね!」
「はあ…はあ…はあ…その言葉…覚えておくわ……」
アスカは壁にもたれ掛りながらゆっくりと立ち上がると体を引きずる様にして歩き始めた。
生きろ…アタシ…例えどんな目に遭わされても…アタシはもう…一人じゃないんだから…
Ep#09_(4) 完 / つづく
※1 唯一神ヤハヴェを崇拝するキリスト教では多神教の信仰者は原則的に異端と見なされる。キリスト教化の歴史において異教徒との戦いは大義名分として認められていたため、強制的な改宗が施政者の利害関係と相まって中世ヨーロッパで長く続いた。しかし、ギリシャ神話はその見事な寓話性と卓越した完成度、さらに歴史的にはローマ神話と深く結びついていたため、時のローマ法王もローマ帝国内に深く根を下ろすこの先住者の影響を全く無視出来なかった(キリスト教の黎明期においては法王はローマ帝国皇帝の権威を必要としていた)。そのため殆ど例外的に共存策を採って無下に破壊することを避けて今日に至っている(しかし、神話自体は宗教ではなく古典芸術などの学問分野に変容させることには成功している)。ギリシャ神話は現在でも欧米社会において「教養」の一部と見なされており、政治家などの知識層は常々このギリシャ神話のエピソードを引用する。彼らの真意や文化を深く理解するためには知っておいて絶対に損は無い知識である。
(改定履歴)
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