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新世紀エヴァンゲリオンの二次創作物、小説「Ihr Identität」を掲載するサイトです。初めての方は「このサイトについて」をご参照下さい。小説をご覧になりたい方はカテゴリーからEpisode#を選んで下さい。この物語はフィクションであり登場する人名、地名、団体名等は特に断りが無い限り全て架空のものです。尚、本ホームページに使用した「新世紀エヴァンゲリオン」の画像は(株)ガイナックスのガイドラインに沿って掲載しています。配布や転載は禁止されています。
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まず初めに…

鉄十字(Eisernes Kreuz)はナチスの鉤十字(Hakenkreuz)とは全く違うシンボルであるという事をあらかじめお断りしておきます。鉤十字はドイツ国内では「民主主義を否定するシンボル」として例えアクセサリーでも身につけていると反政府行為と見なされて処罰されるほど厳しい禁忌行為です。予め誤解のない様にするためにお断りさせて頂きました。
 
Eisernes Kreuz
 
ドイツ騎士団はマルタ騎士団などと同様に現在も存続しており、鉄十字はその紋章として使用されています。ただ、一口に「騎士団」と言っても非常に複雑なのでそれはまた別にお話したいと思います(因みに当然これに氣士團は含まれません。為念)。

ここではドイツ騎士団とプロイセンに付いて以下で少しお話したいと思います。

(鉄十字とドイツ騎士団の起こり)

さて鉄十字の起源はドイツ騎士団旗やマントに付けられた黒い十字架だと言われています。ドイツ騎士団は12世紀後半に時の教皇クレメンス3世によって認められた「エルサレムの聖母マリア病院修道会」がその前身になります。やがて修道会は1199年に正式に騎士修道会として認められます。騎士修道会には他に聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団があります。



(ドイツ騎士団領)

13世紀に入ると十字軍事業の廃退によってパレスチナにおけるドイツ騎士団の活躍の場は失われやがて拠るべき場所を失ってしまいます。その後、ハンガリー王に招かれてトランシルバニア(ドラキュラ伝説で有名)に領地をもらいますが教皇の後ろ盾を借りて独立を試みて失敗、再び領地を失った騎士団は今度はポーランド貴族の招聘でバルト海沿岸に落ち着く事になりました。ここでドイツ騎士団は再び教皇から異教徒であったプロイセン(プロシア)人の討伐の許しを受けて積極的に武力でキリスト教化を進めます。これが熾烈を極め、この時代にドイツから多数の入植者が流入してプロイセン人文化はドイツ、ポーランドと同化してしまうのです。

さらにドイツ騎士団はエストニアの領有をめぐってデンマーク王国と敵対し、リトアニア大公国とも争いを始め、常々専横的な態度に腹を立てていたポーランド王とも対立するようになり、ドイツ騎士団は四方から攻撃されるようになって次第に勢力を失っていきます。



(プロイセン公国の成立)

14世紀後半にはいるとドイツ騎士団はポーランド王を中心にしたプロイセン連合との戦いに明け暮れる様になり、ついに騎士団はポーランド王の傘下に入る事になります。やがて16世紀にホーエンツォレルン家の傍流であるアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがドイツ騎士団総長に就任し、マルティン・ルターの新教(プロテスタント)に配下の騎士とともに改宗する事で実質的に解散状態になってしまいます。後に騎士団領はポーランド王を宗主と仰ぐプロイセン公国が成立し、プロイセン公国はホーエンツォレルン家(ブランデンブルク選帝侯)一門の世襲領となります。後で出てきますがプロイセン公国は神聖ローマ帝国の勢力圏外にあったためプロイセン王を名乗ることが認められ後に王国になります。



(プロイセン王国の誕生)

プロイセンはブランデンブルク選帝侯の飛び地領でしたが17世紀にはポーランドの宗主権から解放され、ブランデンブクル=プロイセン選帝侯が誕生します。後に神聖ローマ帝国皇帝のレオポルト1世(ハプスブルク家)からプロイセン王国の称号を認められてここにプロイセン王国が誕生します。1701年ブランデンブルク選帝侯フリードリッヒ3世はケーニヒスベルクで戴冠してプロイセン王フリードリッヒ1世となりベルリンに都します。以降、プロイセン王国はフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)、そして啓蒙君主として名高いフリードリッヒ大王の治世でその絶頂期を迎えます。このフリードリッヒ大王をかのナポレオン1世も尊敬していたと言います。


(苦難の時代 ナポレオン戦争)

18世紀に入ると王国は苦難の時代を迎えます。フランス革命の風雲児としてナポレオン1世が登場します。この時代のプロイセン王は暗愚と呼ばれた(ちょっと可哀想だけど)ヴィルヘルム3世の治世でした。かつて大王の下で軍事大国として鳴らしたプロイセン軍でしたが軍制改革を訴える将軍たちの声に耳を貸さず旧態然としたままナポレオンと先端を開き一小国にまで没落する末路をたどります。この戦争でプロイセンは無益に有能な将兵を失います。この時代に戦争論で有名なクラウゼウィッツはプロイセン軍の将校として活躍していました。ナポレオンは破竹の勢いでヨーロッパ大陸を制覇して行きますがロシア遠征で惨敗を喫し、プロイセンは民族の愛国心の高まりと共に解放戦争で勝利しては再び復権を果たしてドイツ帝国(第二帝国)の時代を迎える事になります。



(結び)

ヨーロッパの歴史は非常に複雑です。何故なら封建時代のヨーロッパには明確に国家という概念が少なくとも日本よりは強くなく、あくまで世襲する領地を保有する国王と領主(貴族)との間の関係によって決まっていました。つまり国家という帰属意識ではなく、「血の繋がり」が重んじられたのです。例えばフランスのとある地方を領有する貴族が王様の代替わりで突然イギリス王に忠誠を誓う事もありました。その場合、地理的にはフランスでもイギリス領がいきなり誕生する、という按配です。日本でいうと例えば大阪府が突然中国や韓国になる、ようなイメージのことが中世では当たり前でした。それだけ古くから地方行政が発達していたことを意味するので日本の様に古くから中央集権体制が確立していた文化と比べると現在、さかんに議論されている「地方分権、道州制」が果たして日本人に馴染むのか?ちょっと疑問があります。

話を元に戻すと・・・

国王は国王として世襲する領地を保有する権限を有しているからこそ「国王」足り得るのであって、血が繋がっていれば例え外国人であってもその国の国王になる事が出来ることを意味します。つまりA国とB国は対立関係にあってもA国とB国の王族の血を引いていればA国とB国の王を場合によっては兼務出来ると言う理屈が成立します。しかし、だからと言って王様が勝手にA+B=C国を勝手に建国する事は許されず、AとBの王様はそれ以上でもそれ以下でもないという・・・ちょっとややこしいですね。少なくとも明らかに日本の「天皇制」とは異なります。同じ様に島に成立した国家を持つイギリスですら連合王国でいまだにイングランド人とスコットランド人、そしてアイルランド人という言い方をします。関東の人と関西人とは比べ物にならないくらい強く区分けを求めてくるので民族意識(地方分権)に対する意識の違いに驚かされます。

上の理屈で行くと例え王様の息子であっても次にA国とB国の王を継いで行けるかというとそうとは限らず、それぞれの国における継承順位が参照されることになるので代替わりというのはかなり大きなリスクだったのです。ですからたまに空前絶後の遺産が転がり込むラッキーな王様がいたり、父親が死んだ途端に没落する王様がいたりするという理不尽な事が起こるので如何にヨーロッパでは政治力(特に外交能力)が必要かが分かります。ボーとしていたら領地はなくなる!この危機感が絶えず政治には付いて回ったのです。

ここに長らく「天皇は天皇」で「日本は日本」という国家観とは明らかな違いを見ることができます。政治、あるいは外交力、そして国防というものをちょっと我々日本人は誤解しているかもしれませんね…国際社会、国際儀礼というものがヨーロッパをスタンダードにしている以上、少しこの辺の事を意識して置くことは決して無駄ではないと思います。



かなりラフに纏めてしまったので少し厳密な意味で誤解を与えないか不安ですが、この方面に力を相当数割くのもこのサイトとしてどうなのかなあ…という悩みもあり、正確にトレースされたい方や興味をもたれた方は是非、wikiなどのサイトを基本的には参照される事をお勧めして終わりにしたいと思います。


Hetalia / Gilbert x Elizaveta (APH)


(改定履歴)
3rd Sept, 2012 / リンク切れ修正

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