新世紀エヴァンゲリオンの二次創作物、小説「Ihr Identität」を掲載するサイトです。初めての方は「このサイトについて」をご参照下さい。小説をご覧になりたい方はカテゴリーからEpisode#を選んで下さい。この物語はフィクションであり登場する人名、地名、団体名等は特に断りが無い限り全て架空のものです。尚、本ホームページに使用した「新世紀エヴァンゲリオン」の画像は(株)ガイナックスのガイドラインに沿って掲載しています。配布や転載は禁止されています。
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プロローグのような特報
1815年6月18日
ベルギー国境の丘陵地であるワーテルローでイギリス・プロイセン連合軍とフランス帝国軍が激突した。世に言うワーテルローの戦いである。この戦いでナポレオン1世は連合軍に破れ、百日天下は終わりを告げる事になった。この戦いの後、ナポレオン1世は退位してイギリスに亡命、西アフリカの絶海の孤島セント・ヘレナ島に送られることになった。このナポレオンの末路を見届けて静かに息を引き取った一人のプロイセン将校がいた。名をワルター・ヨアヒム・フォン・ツェッペリンといった…
1815年6月18日
ふと風がそよいだ時、私はそこに森の薫りを感じた。何故だろう。
降りしきる雨の中…ぬかるんだ大地…苦痛のうめき声・・・馬の嘶(いなな)き…そして鳴り止まぬ砲弾の音…
ここはおよそこの世の地獄の筈なのに…
これから心躍る眩しい光に溢れる季節が訪れるだろう。我が祖国の厳しい寒さに耐え忍んできた木々がいっせいに芽吹き青々とした葉を茂らせる季節…森の都ベルリンに緑薫る季節がもうすぐやって来るのだ。
私もそこに帰ろう…ワルターの眠る静かな森へ…祖国にやがて自由がもたらされるのだから…
憂いもなく…
我々はついに勝つのだ。見よ。我がプロイセンの旗を。
はためく鉄十字の元に集いし勇者たちよ。願わくば私を導いて欲しい。思い出の地、テンペルホーフへ…
悪しき野望を打ち砕いた後で…
戦史に名高いワーテルロー(独名: Schlacht bei Belle-Alliance)は午後4時半にプロイセン軍先鋒が到着するとこう着状態から戦局が一気に動き始めた。
プロイセン軍のビューロー軍団3万が仏帝国軍右翼に殺到、これを見たナポレオンは傍らに控えていたスルト元帥(仏軍参謀総長)を睨み付けると重々しく口を開いた。
「ロボーを出せ」
予備隊として温存していたロボー将軍貴下1万の軍団が迎撃に向かう。
ワーテルロー会戦に先立つ2日前にリニーに前進元帥フォン・ブリュッヒャー率いるプロイセン軍を破ったナポレオンは新たに元帥府に列する事になったグルーシーに追撃を命じていた。
グルーシー元帥はプロイセン軍の追撃に失敗して振り切られ、そして前線では勇猛果敢な元帥であるスルトはそのグルーシーを呼び戻すのに伝令をわずかに1名しか派遣しないという愚を犯していた。
グルーシーはグルーシーで彼の皇帝の命令を忠実に守ることだけに固執していた。新米元帥に遊撃隊の指揮はやや荷が勝ち過ぎていたらしい。ワーテルローで戦端が開かれた時、幕僚の一人がグルーシーにワーテルローに回頭するように進言したがグルーシーは言ったという。
「最新の命令書は追撃だ。これ以外の事実はない」
ロボーはビューロー軍団をよく抑えた。
仏軍砲兵は手際よく砲弾をビューロー隊に叩き込んで足止めしていたが負傷したフォン・ブリュッヒャーに替わり指揮を執っていたグナイゼナウの本体が到着すると衆寡敵せずロボー軍団もついに壊走し始めた。
17時、追い込まれたナポレオンは最精鋭部隊の近衛軍団を前面の英国軍に向けて出撃させた。最後の闘いを挑んだのである。
英国陸軍ウェリントン卿は粘り強い守りで仏軍の騎兵部隊を率いるネイの突撃を何とか防いで連合軍の隊伍を保っていた。しかし、ナポレオンのこの近衛軍団投入の決断は遅きに失していた。
「老近衛兵だ!前衛二列横隊!英国兵の諸君!堂々と迎え撃つのだ!」
ウェリントンは叫んだ。
老近衛兵とは「年寄り」という意味ではなく「歴戦の猛者」という意味である。ナポレオンの旗揚げ以来、戦場で皇帝と寝食を共にしてきた彼らは数多くの激戦地を潜り抜けてきた仏軍の精神的支柱でもあった。
老近衛兵が英国歩兵の待ち構える丘に差し掛かった時だった。
突然の予期せぬ方向から英国兵が現れた。ウェリントン卿お得意の伏兵だった。これには無敵を誇った近衛軍団も支えきれずついに後退を余儀なくされた。
この時、歴史は決した。
仏軍はもはや組織的抵抗を維持することが出来ず戦線は崩壊、21時には英国軍、プロイセン軍の追撃戦に舞台が移ることとなった。
この戦いで仏軍戦死者2万5千、捕虜1万に対して連合軍も2万の被害を出した。
ナポレオンは6月21日にパリに帰還、わずかな側近は戦いの継続を支持するも議会は退位を支持、翌日ナポレオンは退位を宣言した。
エルバ島脱出から3ヶ月、百日天下はここに終焉する。
ワーテルローで仏軍右翼を突いたプロイセン軍のビューロー軍団では一人の将校がナポレオンの退位をまるで見届けるようにして静かに息を引き取っていた。
新たに廃兵院の列に連なることになった彼の名はワルター・ヨアヒム・フォン・ツェッペリンと言った。享年29歳。
しかし、名家ツェッペリン伯爵家は前進元帥フォン・ブリュッヒャーを病床に見舞った後で丁重にこれを辞した。そしてワルターは生前の准将から中将位を追贈され静かに遺族と共にテンペルホーフへと向かって行った。
彼の葬儀は密葬で行われ将軍でありながらプロイセン軍からはロシアに共に亡命してナポレオンに対して徹底抗戦をしたクラウゼヴィッツただ一人が友人として列席したのみであった。
葬儀の後、クラウゼヴィッツはベルリンの軍事省前で僚友を殴り飛ばして参謀総長のグナイゼナウから叱責されるという問題を起こした。
「国を愛する心の前に男女の差など無意味だ。あいつは確かに愛国者だった。ただそれだけの事なのだ」
後にクラウゼヴィッツは戦争論をまとめ、後世の歴史にその名を永く残すことになる。
乞うご期待。。
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