新世紀エヴァンゲリオンの二次創作物、小説「Ihr Identität」を掲載するサイトです。初めての方は「このサイトについて」をご参照下さい。小説をご覧になりたい方はカテゴリーからEpisode#を選んで下さい。この物語はフィクションであり登場する人名、地名、団体名等は特に断りが無い限り全て架空のものです。尚、本ホームページに使用した「新世紀エヴァンゲリオン」の画像は(株)ガイナックスのガイドラインに沿って掲載しています。配布や転載は禁止されています。
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第6部 Also sprach Zarathustra ツァラトゥストラはかく語りき
(あらすじ)
諸人よ!解放の時は来た!この国を縛る鎖を断ち切り沈黙の愚者を躊躇無く屠れ!
進め!神なるものの求めに従って!活目せよ!海割れて現れる救いの道を!
最果ての地でただ歌い上げよ!我らが歓喜を!叫べ!届け!
狂気渦巻く第二東京市に現れた加持は運命の扉を開く…
「これが…これが俺の求めていた答えだというのか…俺はあえて言おう…ニーチェの如く…」
「神は死んだのだ…そして我々がそれを殺したのだと…」
「A Passionate」 ピアノソナタ第23 Op.57 / L. v. Beethoven
第3楽章 Allegro, ma non troppo - Presto
午前の検温が終わると若い女性看護師はそそくさと部屋を後にした。
人気の無い病棟ではあったが引っ切り無しにかかる構内アナウンスが人手不足を想起させる。アスカは隣のベッドの上に学生カバンとセカンドバッグを広げて荷物を纏めているレイの姿を見ていた。
レイは医療部のパジャマをまだ着たままだった。ルーズな着かたのためか、右の肩口が露わになっていた。
人気の無い病棟ではあったが引っ切り無しにかかる構内アナウンスが人手不足を想起させる。アスカは隣のベッドの上に学生カバンとセカンドバッグを広げて荷物を纏めているレイの姿を見ていた。
レイは医療部のパジャマをまだ着たままだった。ルーズな着かたのためか、右の肩口が露わになっていた。
「今日の午前中の検査…アンタやけに長かったわね?今日が退院じゃなかったっけ?」
「…ええ…3回検査したから…」
レイが遅れてそれに応じる。
「さ、三回?RPBM(Rapid Probing Brain Measurement)でしょ?あんなHigh resolution(高分解能)検査で三回もおかしいじゃん!もしかしてどっか異常があったとか?」
「異常は無かったわ…予定通り退院だって…」
「そ、そう…ならいいけどさ…でも三回も測るかな…」
アスカとレイは偶然にもシンジと会った日の前日に冬月、ミサト、日向の訪問を受けていた。アスカはこの時に参号機殲滅の顛末を初めて聞いた。
レイが自分の身を顧みずに援護したという話に触れて内心は穏やかではなかった。声に出して直接は言わないもののレイの頭には包帯が巻かれたままであることも気がかりだった。
「学校…行くの?今日、金曜でしょ?」
「…分からない…」
「そっか…まあ…アンタの自由だから好きにすればいいけどさ…」
アスカは小さなため息を付くと視線を窓の外に向けた。再び部屋に静寂が訪れる。
昨日、ミサトたちがここを訪れた時に二人はチルドレン関係の事で三つの事を聞かされていた。一つ目はフォースチルドレン、すなわち鈴原トウジが参号機正規パイロットから予備役となったこと。二つ目はアスカの第一中学校編入許可が大学既卒を理由に完全に取り消されたことであった。
二つ目の事が冬月から告げられた時、その場にいた全員の視線がアスカに集まった。元々、レイやシンジたちと同様に学校に通いたいと言い出したのはアスカだった。その願いを叶えるためにミサトと日向は方々に頭を下げて回って根回しを周到に進めた上で冬月の決裁を取り付けたのだ。
許可を出した冬月が取り消しを通告するというのも皮肉な話だった。
そして三つ目がフィフスチルドレン、渚カヲルの着任だった。カヲルもトウジと同様に予備役扱いだったが然るべき機体の配備乃至は正規パイロットの欠員、のいずれかが生じた場合は優先的に昇格する予定であると告げられた。
「何か質問はあるかね?」
冬月は患者を刺激しない様に努めて平静を装っているように見えた。
「ありません…」
「アタシも特に…」
レイに続いてアスカも答える。大人たちは肩透かしを食った様な表情を浮かべていたが用件が済むと静かにその場を去って行ったのだった。
アスカは再びちらっとレイの方を見る。
レイは病院のパジャマを脱いで制服のブラウスを羽織っているところだった。ちくっとした針で突かれた様な痛みを胸に感じてレイから視線を外すして窓の外を見る。
学校…か…なんでアタシは通いたいなんて言ったのかしら…そうよね…いまさら中学校もないわよね…漢字が読めなくて苦労したし…毎日暑くて面倒だった…でも…楽しかった…鈴原にからかわれたり…ヒカリとおしゃべりに熱中したり…クラスで運動したり…短かったけど色々あった…何か他に…もっともっと嬉しかったり…そして辛いこともあった様な気がするけど…それはもう闇の中…アタシはもうそれに手を出すことが出来ない…
アスカは僅かに顔を顰めるとこめかみに右手を当てた。
碇君…か…嫌味に聞こえたのかな…でもそれだけであんなに怒るかしら…なんかトラウマティックな感じだった…碇君って言う事よりアタシが不機嫌だって思い込んだような感じ…許すということにどうして執着していたのか…そしてあのキス…
集光ビルが運んでくる地上の光が眩しい。時計の針は午前の10時を回っている。外気温の高さが容易に想像できた。
歩くだけで疲れるのよね…あのダラダラした坂道…今日みたいな日は特にそう…あの公園も…あの菩提樹も…もう見ることはない…か…自分と同じ年代の子達と一緒にいたのは初めてだった…凄く怖かった…関わるのが…無味無臭な手紙の山…昔の自分を見てるみたいで鳥肌が立った…
何が子供で…何が大人なのか…アタシは何なのか…自分の姿すら正しく認識できない…滑稽な…女…の子…
過去も未来もない…今という瞬間を重ねていく事…ひたむきに…それが生きること…ひたむきに生きるからそこに希望(未来)が生まれる…アタシ達に明日がないならそれも受け入れる…主の求めに従って…だから…今を…
「ねえ…アンタさあ…やっぱ行った方がよくない?学校…」
アスカは窓の外を見つめたままだった。
「…なぜ…?」
「行ける時に行っといた方がいいってことよ…ただそれだけ…会えるなら会っておいた方がいいわよ…明日にはどうなるかなんて分からないんだから…アタシ達…」
「誰に…会うの?」
「誰でもいいわよ。アンタの会いたい人でいいじゃない?そんなの…」
「…そんな人…いないから…」
「似合わないわよ、アンタ…嘘をつくような子じゃなかったでしょ?」
「…」
「ごめん…今のは言い過ぎかも…羨ましかったのかな?アンタが…」
アスカはそれ以上何も言わなかった。
昨夜、シンジがこの病室を飛び出した後、かなり時間が経ってレイが帰って来た。ジオフロントの夜はかなり冷え込む。唇に色が無いのが遠目にも分かった。
レイの身体は冷え切っていた。押し黙ったまま自分のベッドに戻ってきたレイにアスカは紫色の着古した長丈のカーディガンを放り投げた。カーディガンが狙い済ましたようにレイの頭にヴェールの様に架かる。
結局、二人はそのままお互いに言葉を交わすことなくこの朝を迎えていた。
気が付くとレイがアスカの側に立っていた。手に不器用に畳んだカーディガンを持っていた。
「これ…」
アスカは暫く差し出されたカーディガンを見詰めていたがやがて右手でそれを受け取った。
「もうバカな事しないでよね。自分をいじめるのはよくないよ。アンタ、アタシと約束したでしょ?何があっても生きるってさ…自分を労わることはその一環なんだから」
「…」
レイは何も答えずに踵を返すと再び荷造りを始めた。
「このカーディガンさ…初めてアタシが自分で買った服なの…ベルリンのH&Mで…」
レイは手を止めるとアスカの方を見た。
「すっごく嬉しかったのを覚えてる…可愛い服が一杯あって目眩(めまい)がしそうだった…」
「…買い物…好きなんでしょ…?」
「え?」
「…毎週の様にあなたが服を買ってるって…碇君が…言ってたから…」
一瞬、アスカは怪訝そうな顔つきをしてレイを見たがすぐに目を逸らした。アスカは包帯が巻かれた右足に視線を落とす。
「そうよ…服やアクセを買うときが一番楽しい…まあ…何かの反動かと言われても否定しないけど…」
不自然な間合いが開いた後、再びアスカが口を開く。
「前から思ってたんだけど…アンタってさ…それ(制服)しか持ってないの?」
「これ以外にいるの…?」
「いるのって…じゃあ寝る時はどうしてるわけ…?」
「ブラウスがあるから…」
「休みの日とか…お買い物の時とか…」
「これ(制服)があるから…」
ていうか…アンタそれって全部制服じゃん…まあ…アタシもドイツにいた時は似たようなもんだったけど…アンタも辛いのね…
「…今度一緒にモール行こうか…見立ててあげる…多分、アンタよりアタシの方がセンスあると思うし…」
どう反応していいのか、戸惑った表情をレイは浮かべていた。やがて静かに口を開いた。
「…分かった…」
「嬉しいと思う…自分で選んだ服って…」
制服に着替え終わったレイは両手に荷物を持つと病室の扉の前まで静かに歩いていく。そして扉に手をかけたところで立ち止まる。
「碇…シンジくん…」
「え?何?」
レイは背中を向けたままだった。
「あなたはいつもシンジって…呼んでいたわ…碇君のこと…」
「シンジ…」
「御機嫌よう…」
レイはそう言い残すと廊下に消えていった。
「バカ…無理しちゃって…」
アスカは足元に置かれている花を見ていた。
「ここまでは一先ず計画通りってところかしらね…」
白衣を着た如月が大型モニターに映し出されている模式化された記憶層チャートを眺めていた。
部屋は薄暗くモニターの周りだけがやけに明るかった。如月の周囲には技術部第三研究室の面々が揃っている。
「被験者であるセカンドチルドレンですがEvaとのシンクロシュミレーションで最も強いノイズがA10神経に乗る第981セクターから1128セクターまでを集中的に封止することを目指してきました。その結果、BRTはレベル2の上限ぎりぎりに到達してはいますが当初の目的は達成されたものと感得します。事実…」
若い女性オペレーターがタッチパネルの様に大型モニターに触れると新たに画像処理された弐号機のシンクロチャートがポップアップする。
「これは伊吹二尉から提供されたセカンドチルドレンのシンクロ率のデータですが、先般の第13使徒バルディエル戦の時のデータを見ますと約78%で自己ベストには及ばないまでも前回シンクロテストから比較すると飛躍的な向上が見られます。以上のことから第二記憶層封止実験は一定の成果が得られているものと結論付けられます」
「なるほど…ね…しかし…一点だけ懸念がある…ここ…」
如月が白く長い人差し指で記憶層チャートに触れる。指で触れた部分が大きくクロースアップしていく。
「この第一記憶層と第二記憶層のジェリコの壁に開いた穴…第565から第667セクターと…それに加えてここ…第804から第893セクター…第一の穴に比べれば半分くらいだけど…ここのActivity(活性度)は?」
如月の隣にいた30前半の長髪の男性職員が口を開く。
「はい…ご指摘の通りです…このセクターのActivityは一応数字の上ではまだ“壁“の域内ですが他の封止されたセクターに比べますと比較的高い傾向があり…」
「前置きはいいわ。率直に言うとあなた達はどう診立ててるの?」
「穴の予備軍といいますか…その…」
「つまり…新たな崩壊の兆候があるってことよね…」
「はい…」
「まずいわね…Evaとのシンクロで何か特異な点は?」
「私達もまずEva側の干渉の可能性を考えて弐号機のログを確認しましたが異常はまったく見られませんでした」
「するとこの崩壊の兆候は第一の穴とは異なるメカニズムってことか…」
如月は独り言の様に呟く。
「室長…ちょっとアイスドール(レイの技術部内での通名)のチャートを見て頂いても宜しいでしょうか?」
若い女性職員の言葉に如月は怪訝そうな表情を浮かべた。
「ファーストの?今はこのセカンドの事象の原因モデルを考える方が先決よ?」
「分かっています…多分…説明できると思いますので…」
「え?どういうこと?まあ…いいわ…」
「これなんですが…」
「な!!何よこれは!!あ、あり得ないわ…ジェリコの壁がほとんど崩壊寸前じゃないの!!」
「我々も初めにこのデータを入手した時はRPBMの不具合か何か…その…何かの間違いかと思いまして…隅々までチェックしましたが異常は見られず、結局三回測定しましたが全く同じ結果が再現されました…」
「あり得ない…あり得ないわ…」
如月はみるみる血の気が失せていくのを感じていた。薄暗い室内でそれは幸運なことに誰にも気付かれなかった。
前々から気になっていた…ファーストは…ファーストの出自は…Grade-Sのマターで私も推測の域をでなかった…しかし…こうして実験データを突きつけられると私の中での疑念は一気に解放されて…
「伊吹二尉にもそれとなく相談してデータの信憑性をMAGIにかけましたが測定結果の信用度は99.9999987%ですので…」
如月は呆気に取られているように見えた。
室員達は事の重大性に思いが至っていないのか、如月よりも比較的冷静に現実を受け取っている雰囲気があった。より多くを知る者とそうでない者との差、とも言えた。
室員達は事の重大性に思いが至っていないのか、如月よりも比較的冷静に現実を受け取っている雰囲気があった。より多くを知る者とそうでない者との差、とも言えた。
「これは物理的自己修復作用の一つと言えます。生化学的な意味での修復活性度(加速度と同意)を求めたところ…ファーストのそれは人間のデータとは著しく異なることがわかりました…」
如月は自分の身体が僅かに震えているのを感じていた。
思えばファーストは初めから不可解な事が多かった…BRT実行の過程であれ程長期に渡ってレベル5をオペレーションした被験者はなかった…あまりにも不活性層が形成される速度が遅かったから…ネルフの全支部のデータやファイルを漁ってもあんな前例はなかった…仕方がないから低濃度BRの定期投与で間に合わせることにした…
レイはネルフ医療部から定期的に錠剤と皮下投与の薬剤を処方されていた。しかしそれらの薬品の出所はこの第三研究室だった。
「すなわち…人間で言うところの自己修復…自然治癒力からはとてもこの修復スピードを説明できません…それを踏まえてセカンドに話を戻しますと第二の穴となりそうなセクターにおける修復活性度は多分偶然でしょうがファーストの値の約半分、正確には49.897%ですが…」
「それでも十分に一般人より高いわ…」
「はい…すなわち使徒の自己修復能力を1とした場合にファーストが約0.50…セカンドが0.25…いずれも人間よりも遥かに高いということに…」
如月は今にも卒倒しそうだった。
何ていうことなの…ファーストはBRの効きが悪い体質だったのではなく…自己修復との競合反応になっていたということか…相殺で見かけの速度が律速していたんだ…ミスだ…決定的なミスだ…どうしてもっと早く活性度評価をしなかったんだろう…いや…問題はそんなところにはない…人間とはなにか…生命とは…神とは…何なのか…私たちはその一線を越えてしまっているというのか…
「一体…私たちは今…何を見ているの…」
室内には重苦しい空気が立ち込めていた。
連日の真夏日で第二東京市の市街は郊外に比べて異常な高さを記録していた。それに輪をかけるように衆議院解散に伴う総選挙の熱気が街を包み込んでいた。
衆議院を解散した陸奥首相ではあったが結果的にネルフによる非常事態宣言の発令で内閣自体も自動的に失職したため修正憲法の規定で実質的にこの総選挙で過半数を取った政党が同時に組閣まで担当することを意味していた。
ヒートアイランド化した市内は選挙戦の熱気も加えて咽返りそうだった。
マスコミ各社の世論調査では与党自由党の苦戦が各所で続いていた。使徒戦勃発後の対応の逆風をまともに受けている様な格好だったが、それとは対照的に野党第一党の国民党が議席の3分の2を握る勢いを見せていた。
そして求心力を失った自由党からは離党者も相次いでいた。元々自由党の右派勢力を率いていた生駒(現国民党党首)に近いグループは国民党への鞍替えを進めて国民の顰蹙を買っていた。
その中で完全な無所属で新党「新世紀」を旗揚げした能登(元自由党前内閣官房長官)の存在は第三勢力ともいえる健闘を見せていた。
マスコミ各社の世論調査では与党自由党の苦戦が各所で続いていた。使徒戦勃発後の対応の逆風をまともに受けている様な格好だったが、それとは対照的に野党第一党の国民党が議席の3分の2を握る勢いを見せていた。
そして求心力を失った自由党からは離党者も相次いでいた。元々自由党の右派勢力を率いていた生駒(現国民党党首)に近いグループは国民党への鞍替えを進めて国民の顰蹙を買っていた。
その中で完全な無所属で新党「新世紀」を旗揚げした能登(元自由党前内閣官房長官)の存在は第三勢力ともいえる健闘を見せていた。
新日比谷の地下鉄駅の出口から吐き出される人の群れに混じって加持リョウジが現れた。
選挙公示後初めての金曜日だった。各陣営の演説にも俄然力が入っていた。
地下鉄駅の出口のすぐ近くでまるで対抗するように自由党候補と国民党候補がマイクを握って激しい言葉の応酬を繰り返していた。
凡そ大人とは思えない罵詈雑言をお互いに浴びせかけて子供の口げんかの様相を呈しており、それを落語か漫談を見物するかの様に周りには出勤の足を止めるサラリーマンやOLの姿があった。
「やれやれ…これじゃ国家の品格も何もあったもんじゃないな…もはや狂信的な波に飲み込まれてしまっている…」
加持は苦笑いを浮かべて独り言の様に呟くと足を東京音楽アカデミーの方に向ける。
途中、大きなヘッドフォンをつけて大音量でMP3プレーヤーを聞いて左右に身体を揺らしてだらしなく歩く新入社員の様な若いサラリーマンが向こうから同じ様に人の波に押されてやってくるのが見えた。
通り過ぎざまに加持の肩と若いサラリーマンの肩がぶつかる。
「はあ?イッテーよ、お前!何処見てんだよ!」
「おっと失礼」
「失礼じゃねえよ!謝るくらいなら歩くな!この糞ゴミが!」
「…」
若いサラリーマンは歩きながら加持を睨みつけて去って行く。加持は肩を竦める。
「ネット社会で育った典型的なタイプだな…」
本来…ヒトは他人との関わりの中で自己を認識し、そして自分と他人との相違を確認するものだ…それが匿名社会の台頭と共に自分の理想を極限まで昇華させてその周りを心の壁で覆いつくして自分の世界に固執する傾向が強まっていった…
だが…自己修復ではなく自然に崩壊に向かうヒトがそうやって形作っていく自分だけの世界ってやつは実に荒涼として乾ききっている…それが心の隙間となっていき、その不安に苛まれた心が歪んだ形で他人へと向けられる…破壊という行為でな…それでも尚、己の弱さを自覚できない…所詮は儚く弱い群体が俺たちか…
加持は大きくため息を付くと再び歩き始めた。
心が折れた訳ではないが…さっきのヤツももしかすると人類の相互補完という本質等どうでもいいと思うのかもしれないな…むしろ勝手に救いだと言われるものを素直に受け入れた方が楽だと思うかもしれない…俺も人に何かを押し付けるつもりはない…ただ…自分の信じる道を歩くのみだ…
加持はゴシック調の大きな正門をくぐるとポケットから一枚の名刺を取り出す。
キャンパスの中は周りの通勤ラッシュの喧騒が嘘の様に静まり返っていた。楽器を入れたハードケースを抱えた数人の男女が往来するだけで閑散としている。
正門から少し歩くと大きな噴水があった。噴水の吹き上げる水しぶきが玉の様になって太陽の光を飲み込んでいた。
重厚な鉄製の扉を開けて大聖堂のような白亜の建物の中に入ると静寂が加持を包みこんだ。ロビーにある案内図の中から吹雪条一郎の名前を探し当てる。吹雪の研究室は一階の奥まったところにあった。
木製のドアをノックする。
「失礼します。事前にお手紙した加持という者ですが」
「ああどうも。あなたが加持さんですか。お待ちしていましたよ。まあどうぞお掛けになって下さい。今、コーヒーを入れたところでしてね。召し上がりませんか?」
少し表情を強張らせながら初老の紳士が部屋の奥から現れると加持に応接用のソファを勧めた。
「ありがとうございます。ありがたく頂戴します」
「砂糖かミルクは?」
「いえ、そのままで結構です」
年の頃は60歳前後だろうか、白髪混じりの吹雪は鬢(びん)の部分が一際白いのが特徴的だった。小さな鼻に鼈甲作りの遠近両用眼鏡を乗せていた。
白地に青く美しい精緻なザクロの模様をあしらったカップとソーサーを加持の前に静かに置く。
「ありがとうございます。いただきます。ほう…マイセンのアンティークカップですか?実に見事ですな」
「よくお分かりですね。この意匠(デザイン)はブルーオニオンといいましてね。マイセンを代表する一つですよ」
吹雪の顔にパッと喜色が浮かんだ。
「マイセンの歴史はドレスデンを居城としていたザクセン王アウグスト強健王が17世紀に錬金術師を幽閉して金を作らせようとしたことに端を発します。当時の西欧では中国製の白磁が大変貴重でその図案の一つがザクロだったのですが、ザクロに馴染みがなかったヨーロッパ人がこれを玉ねぎと誤認したためにそれが代表作になってしまったんです。いまではザクロもドイツでは珍しくありませんがね」
「これは驚いたな…加地さんはドイツには何か馴染みでも?」
「仕事の関係で5年ほどあちらに生活の拠点を置いていました」
「道理でお詳しいわけだ。ささどうぞ」
二人はどちらからとも無くカップを持ち上げる。吹雪の緊張はすっかりほぐれている様に見えた。
掴みはOKというところか…下手に警戒されても話が拗(こじ)れるだけだからな…
「ところでご用件というのは?」
「ええ。単刀直入に申し上げて2つあります。先生のところでお預かり頂いているアスカ・ツェッペリンの写真を持ち主にご返却願いたいというのがまず一つ」
加持が探るように吹雪の顔を見る。吹雪は小さくため息を付くとゆっくりと頷いた。
「あの子にもう一度会いたいという一心でしたことですが…まあ褒められた話ではないのは認めます…至極残念だが加持さんの言う通りお返ししましょう…」
加持はゆっくりと吹雪に頭を下げる。
「ご賢察痛み入ります。そしてもう一つは…これは先生ご自身のためでもありますがアスカ・ツェッペリンの事はこの際…お忘れになって頂きたい…」
途端に吹雪の顔色が変わる。
「その件についてだが私から少しいいかね?」
「何でしょうか?私でお答えできる事であれば…」
「君とアスカ・ツェッペリンとの関係は知らんし、私もそれに関しては一切の興味はない。だが…」
吹雪の目には少し詰るような色が浮かんでいた。
「年甲斐も無く私はね…あの子の演奏に心を奪われてしまったんだ…まるで精巧な機械の様に譜面通りで技巧だけが持て囃される味気ない今の音楽の世界で…あの子の奏でる音はね…生気に満ち満ちていたんだ…下らない上辺だけのパフォーマンスではなくてだね、しっかりとした技術に裏打ちされた洒脱、そして独自の解釈が与える曲全体の深み…これらはまさに私がヨーロッパ留学時代に受けたカルチャーショックそのものだったんだよ…この日本には無くてヨーロッパにある音…それは誰も認めたがらないが確実に存在する壁となっているんだ…恥ずかしながらピアノ教師を30年近くやっているが未だにそれを掴む事すら出来ない…」
「心中はお察しします…」
「私はね…別にあの子を取って食おうとしてるわけじゃない…だが…あの天才を…いやあの音をだね、私はもう一度噛み締めたいんだよ…出来る事なら伝えたいと思っている…殺伐としたこの世の中にね…これこそが魂の響きなんだと…歓喜の雄叫びなんだとね」
参ったな…芸術家の感性というか…こういう話は決着の付けようがない…どうしたものか…
加持は自分の困惑を億尾にも出さずに少し考える素振りを見せていた。
「加持さん…本当に私はあの子のことを諦めなければならないのかね…あの音を忘れ去らねばならないのかね…実に惜しい…これは世紀の損失だと私は言いたいんだが…」
そんな事を俺に言われても…ここは下手に含みを持たせない方がいいか…
「はい…残念ながら…これは先生の御為でもありますから…」
「加持さん、君が忘れろというのはこれが理由だろ?」
吹雪はソファの傍らに置いてあった古びたスケッチブックを広げた。加持がそれをゆっくりと手に取る。その姿を凝視しながら吹雪が口を開いた。
「その2008年12月25日付けのベルリナー・イェーデンターク紙の記事。君たちの間で何があったかは知らんが私は死んだ筈の人間に会い、そして世界に二つとない演奏をこの耳でハッキリと聞いた。そして極め付けがこの写真だよ」
吹雪が大きな茶封筒の中から古ぼけた写真を乱雑にテーブルの上に広げた。写真に写り込んでいる風景から一目でヨーロッパであることが分かった。
加持が新聞記事から広げられた写真に目を向ける。写真を見ていた加持の目が大きく見開かれる。
「先生…失礼ですがこの写真に写っている人物は…?」
加持が初めに指を差した色褪せたポラロイド写真は小さなホームパーティーを連想させるような写真だった。
「ああ…こっちのドイツ人はミューラー教授と言ってね、この写真の持ち主なんだがベルリン音楽院の先生で私の恩師でもある。そしてこっちは日本人らしいんだが名前まではね…教授が覚えていないから私ではどうにもならない…何でもアスカ・ツェッペリンの母親の職場の上司らしいがそれ以上のことは」
アパルトメントのリビングを思わせる部屋にグランドピアノが置いてあり、紳士然としている初老のドイツ人の他に幼いアスカとキョウコ・ツェッペリン、そしてもう一人サングラスをかけた東洋人の男の姿があった。
間違いない…碇ゲンドウだ…やはりキョウコ・ツェッペリンと繋がりがあったんだ…ということはゲヒルン職員として赴任した時期の写真という事か…2007年4月から2008年12月までの間…しかし…それだけじゃない…どうして俺はこの部屋に見覚えがあるんだ…
「そうですか…ほう…このミューラー氏はかなり几帳面な御仁のようですね…2007年12月24日のクリスマスパーティーにて…撮影場所は…ベルリンのアン…ハルター…通り…」
加持は写真の裏側を見たまま凝固していた。ポラロイド写真の裏には住所が書かれてあった。
「加持さん?どうかなさいましたか?」
「あ…いや…何でも…」
吹雪が加持の強張った表情を訝しそうに眺めていた。加持はそれを取繕うかのようにマイセンのカップのコーヒーをあおる。
そんな…そんなバカな事が!アンハルターストラッセだと…そこの19番地の2階は…俺とアスカが一時期一緒にいたアパルトメントだ…どうなってる…
加持は何かに取り付かれたように再び新聞の切抜きを見る。事件現場はモルトケストラッセ6番地の3階で起こったと書かれていた。
そうだ…キョウコ・ツェッペリンはベルリンのモルトケストラッセ6番地に住んでいた筈だ…これは市役所の公式文書で確認済みだ…ではこのアンハルターストラッセは…
「すみません、吹雪先生。この写真に書かれている住所なんですがこれは一体どういう意味が?」
「ああ…ミューラー先生は一寸変わった人でね、最近はすっかりデジカメ派なんだが当時はまだポラロイド写真を愛好していたんだ。撮影した写真にものすごく几帳面に撮影日と撮影場所、それから通し番号をつけるんですよ…デジカメに乗り換えた理由は写真の撮影状況の記録を簡便に整理できる事に気が付いたってことでね…」
「このアンハルター通り19番地2階というのは誰の住んでいた場所か、お分かりになりませんか?」
「それだったらアスカ・ツェッペリン親子に間違いないよ」
「それは確かですか?」
加持の目が鋭くなる。
「間違うはずがない。これが写真の撮影記録だ。実はミューラー先生が写真の裏に書き込みをする癖を私はよく知っていたから先生が整理していたアルバムから写真を一時的に外しているからこんなに乱雑になっているが、このノートは本来アルバムと対になっていてこれを見ればどの写真がどういうシチュエーションだったかが日記の様に綴られているというわけですよ」
吹雪はそういうと加地に古びたノートを差し出す。加地がそれを受け取るとゆっくりとページを捲(めく)り始めた。
「このノートの記録によるとミューラー先生はツェッペリン親子からクリスマスパーティーに招待されて親子の家を訪問、そこにはキョウコ・ツェッペリンの職場の上司も呼ばれていたとある。ミューラー先生は男寡でね。このクリスマスパーティーの半年前に夫人を失っているんですよ。私もその葬儀に出席したからよく覚えていますけどね。初めて一人で過ごすクリスマスが不憫だという事でキョウコ・ツェッペリンが招待したようですな、先生を」
「なるほど…」
加持は吹雪の言葉を聞きながらドイツ語で書かれたノートの文字を目で追っていた。
「そこでミューラー先生がキョウコ・ツェッペリンの職場の上司で非常にシャイな日本人と知り合ったと記録に書いてあるはずです。この人も事故で最愛の妻を失っていたという話を聞いて寡同士で共感したという類の事が…」
「確かに仰られるとおりです…かなりのHard Writer (癖字の持ち主)なので苦労しますが…撮影者は…フランツ…ルンケル…」
アスカの父親…ベルリン市内の開業医で娘の親権を争っていた筈…ホームパーティーに呼ばれて写真撮影まで気軽に応じるのか…離婚調停中の男女が…普通に考えてあり得ない…
「加持さん…私もね…別に探偵みたいな事が趣味じゃないんだけどね…あの子の事を調べれば調べるほど分からなくなるですよ…第一…生きていた人間の痕跡を跡形もなく消し去る事なんて不可能です…だって確かに生きていたんですよ?アスカ・ツェッペリンは。いや私は今も生きていると確信しているし、その鍵を握っているのが加持さん…あなただと私は思っているですよ…だからあなたがどんな素性の人なのかは置いておいて、あなたから手紙を受け取ったときにお会いする決心をしたんです。私はもう一度あの子のピアノを聴きたい…音楽しか能のない私だがだからこそこれに賭けているんですよ」
加持は思わぬ出来事に遭遇して吹雪の言う事を遠くで聞いていた。
「私が言いたいのはこれだけの生きている証があるのに忘れ去るという事は出来ないという事ですよ」
確かに…これだけの物的証拠が残っていれば出るところに出ればという訳だ…今は事を荒立たせない方がいいだろう…まさかこんなところにこんな情報が転がっているとは正直思わなかった…この先生がネルフや公安(内務省の一部門)から目を付けられるのはまずい…
「分かりました…私も先生とお話していて段々と考えが変わってきました…どうやらお互いに知っている事を交換し合った方がメリットが多いようですね…私も野暮な事は言いますまい…」
「加持さん!じゃあ…」
「ええ…今すぐという訳には行きませんが来るべき時が来たら…」
「それはありがたい!ありがとう!ありがとう!いやあ会った甲斐が会ったというものですよ!初めは殺されるんじゃないかと冷や冷やしていましたからね」
「そうですか…ははは…さすがに私みたいなひ弱な殺し屋はいないと思いますけどね…ところで先生…もう一つ疑問があるんですがこのノートに出てくるエリザベートという名前は誰ですか?」
「エリザベート?ああ、これはアスカ・ツェッペリンのもう一つの名前ですよ」
何気ない吹雪の言葉だったが加持は必死に動揺を隠していた。
「もう一つの…名前…アスカの…」
「ええ。日系人にはありがちですが正しくはアスカ = エリザベート・フォン・ツェッペリンですよ。どういう訳か母親は自分たちの名字から「フォン」を抜いてツェッペリンだけを名乗っていたんです。「フォン」は本来取ったり付けたり出来る様なアクセサリーみたいなものではなくてフォン・ツェッペリンの2つが正式な名字になるのはご存知でしょ?」
「ええ…フォンは単なる貴族階級の尊称という認識が日本では強いが実際はそうではない。フォンは名字の一部として通常は機能するものですからね」
「まあどういう経緯があったかは知りませんが少なくともフォン・ツェッペリンが正しい名字で、アスカの他にエリザベートという名前を持っていたという訳ですな。これも母親の方針で音楽関係の活動をするときはアスカ・ツェッペリンを名乗らせていてエリザベートという名前は近親者のごく一部しか知らなかった筈ですよ」
「エ…エリザベート…フォン…ツェッペリン…まさか…」
市役所やドイツ政府の記録にもそんな名前はなかった…確かに日独二つの名前を持つケースはなくはない…だが…アスカが…アスカが本当にエリザベート・フォン・ツェッペリンならば…
考えられる可能性は唯一つ…開いてはならない運命の扉があるとすればおそらくこれがそれになる…
「加持さん、コーヒーのおかわりは如何ですか?」
「あ、すみません…頂戴します…」
マイセンのカップを持って立ち上がると吹雪は研究室の片隅にあるシンクの方に向かって歩いていった。心なしか始めの頃より足取りが軽そうに見えた。
加持は肘を膝の上に付いたまま何度も自分の顔を両手で拭った。
何と言うことだ…これが…これが俺の求めていた答えだというのか…こんなところで運命の糸が結びつくとは…神はあまりにも惨い残酷をお与えになった…
いや違うな…俺はあえて言おう…ニーチェの様に…
神は死んだ…そして我々が神を殺したのだ…それが許されるほど我々は超越したのか…進化したというのか…
加持は激しい虚脱感に襲われていた。窓の向こうに見える青空を見詰めていた。
Ihr stürzt nieder, Millionen? Ahnest du den Schöpfer, Welt?
諸人よ、ひざまついたか? 世界よ、創造主を予感するか?
Such' ihn über'm Sternenzelt! Über Sternen muß er wohnen.
Such' ihn über'm Sternenzelt! Über Sternen muß er wohnen.
星空の彼方に神を求めよ 星々の上に、神は必ず住みたもう
Ep#08_(6) 完 / つづく
(改定履歴)
19th June, 2009 / 誤字修正
24th June, 2009 / 表現修正
24th June, 2010 / ハイパーリンクのリンク先を修正
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