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2月14日は「バレンタインデー」として有名です。管理人がこの日を意識するようになったのはいつだったか、まったく記憶にないのですが子供時代の私は「母親がチョコレートをプレゼントしてくれるとっても嬉しい日」が2/14、というのが管理人のバレンタインデーの事始めでしたねww 日本人にとってバレンタインデーは「恋人達の祝日」というよりも「チョコレートの日」という認識の方が強いかもしれませんね。そして「チョコを渡す」という洗礼はどうやら母親から受ける、というのが日本の特色なのかもしれません。
彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
ところが、ラザロという貧しい人が全身ができ物でおおわれて、この金持ちの玄関の前にすわり、 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧しい人がついに死に、御使たちにつれられてアブラハムのふところに送られた。
金持ちも死んで葬られた。そして黄泉について苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火災の中で苦しみもだえています』。
アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪い物を受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
そこで金持ちが言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
金持ちが言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』。
– 『新約聖書』「ルカによる福音書」16:19-31
このフレーズ・・・TVのドラマやら小説などで見かけたり小耳に挟んだりするかもしれませんね。実はこれ、クリスチャンにとっては仏教でいう「お経」のようなものでして、主への祈り、主祷文と呼ばれるものなんです。
これは教会で行われるミサや熱心な信者の家庭では聖餐や聖者を自宅で祝福する場合に「お経」のように唱えられる、文字通り「お祈り」なんですよ。クリスチャンが「祈りを捧げる」「お祈りをする」といえば基本的にこの主祷文のことを指していて、これを覚えていないと話にならないという基本中の基本に位置するものなんです。
「男尊女卑」的な思想が日本に特徴的であると、日本の男女社会参画の一部関係者の間で実しやかに語られる事があるがそれは大きな誤りであると言わなければならない。歴史的に見て「男性上位」の思想は紀元前の段階で広く世界に分布しており、レディーファーストという特異な風習を拠り所として西洋が「女性を大切に取り扱った」と考えるのは浅はかと言うしかない(レディーファーストには実を女性に与えず祭り上げておく、という側面もあったことは知っておいていい)。
時の宗教はこうした社会情勢に非常に敏感であり過ぎ、宗教指導者の理想(悟り)だけでその教義が説かれて後世において編纂されたと考えるのは極めて早計である。キリスト教もその例外ではなく、ローマ帝国皇帝と深い結びつきを経てローマ法王が強い権勢を握ったプロセスを考えれば、必ずしも「人間本位」という考えが優先されなかった事を雄弁に物語るであろう。
人間の始祖を聖アダムとエバに置く聖書によれば、原罪の元を作った「女」エバはキリスト世界において未だにアダムとは同列に置かれておらず、しばしばこれを根拠として「女性の社会進出」は欧米で疎まれていた。それは驚くなかれ20世紀初頭まで続いていたのである。翻って平安朝期の日本では女性が社会で占めた地位が極めて高かった事は意外と知られていない(今日のような男尊女卑は江戸時代に確立したといわれている)。
旧約聖書においてエバ以前のアダムの妻の存在が示唆され、教会の公文書ではない私的文献に「リリス」の名が現れる。アダムの第一の妻として、また一個の自立した女性として凛と描かれる「レディーリリス」はルネッサンス期に一部の画家のモチーフとなっていた。もし、リリスがアダムの妻として聖書に記されていたとすればどうだろう…歴史に「もしも」は禁物だが聖書が与えた後世への影響を考えれば大きく人類の歴史が変わっていた事は疑いようがない。
「リリス」の存在はこうして今も我々に多くのことを問いかけるのである。
人間(リリン)とは一体…何であるのか…と…
価値観、いや、人間そのものに対しても・・・偏りや差異を与えたのは神でも自然でもない・・・我々自身なのである。そこに「人類補完」の本質があると作者は考えている。私はフェミニストではないが「リリス」のエピソードに触れるたびに思うことがある。リリスはもしかしたらヴァチカン、あるいは時の為政者らによって恣意的に黙殺されてきたのではないかと。
その度に私は人間を区別することが如何にナンセンスであるかと思い知らされるのである。全ての人類と生命(動植物)は等しく地球の住人である。だがそれだけの事である。そこに意図的に迫害や過保護があってはならない、と私は言いたい。本質は「生命の尊厳の同一視」であってそれ以上でもそれ以下でもないのである。あくまで私の個人的意見なのだが。
今日はちょっとその辺のお話をしたいと思います。
つまり…
ドイツ人は誕生日を迎えた人がパーティー等を主催して家族、親戚、友人を招いて料理やケーキを振る舞い、招かれたゲストたちはよほどの事がない限り「招待を辞退」せずにプレゼントを携えてやってきます。誕生日を迎えた人はゲストを歓待して「いままでありがとう。無事に誕生日を迎えられたのは皆さんのお陰です」という気持ちを込めてお礼をする、という訳です。
小さい子供たちの場合は勿論、自分でパーティーを主催できないのでその両親がゲストを子供に成り代わって歓待するわけですが、この一部を切り取って日本では「お誕生日会」の風習になったのかもしれませんね。